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望みしは何ぞ 藤原能信の野望と葛藤 永井路子著 その四  

その年秋威子は中宮に立った、里帰りして立后の使いの来るのを上東門邸で待つ。なだれ込んでくる祝客と宴が始まった。[一家三后は未曾有の慶事]との言葉があちこちで交わされた。太皇太后彰子、皇太后姸子、中宮に威子人々は挙って道長の前に進み一家三后、声を張り上げて祝福する酒の入った父の声も大きい。道長の傍らには権大納言右大将藤原実資がいる。大変博学で儀式にも一家言を持つうるさ型だ。道長にしても九歳年上の気の許せないこの人には日頃一目置いている。道長の側でいい姫君をお持ちでそれもまた揃ってお美しくてとほめあげている男がいる。まずいなぜなら実資は可愛がっていた娘が夭折し、また道長や兄の通隆にさえぎられて娘を入内させる機会がなかった。愚かではない実資は悠然と構えて微笑しているが腹の中は。その時ほんの戯れでしてね父の声、道長は照れたような笑顔で実資を見やった。もともと歌はちょっと、ご遠慮には及びませんよ、とそそのかす実資の声は無理に調子を合わせている感じで表情が少し硬い。ほんの座興の思いつきなものでいい気になりすぎてるかな。めでたいお祝いの席いいじゃありませんか。じゃやりますかいい気なもんだなんて思わないでくださいよ、そうそう右大将どの必ずお返しの歌をお願いしますぞ必ずですぞ。なるほど能信は合点する少し下手な歌を詠み実資にうまい返歌をさせる。そしてみごとみごとと褒めそやし相手をいい気にさせてしまう。実資を囲い込むのにこんな手があったのだ。[この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思えば]実資は聞き入りうなずき[いやお見事こんな御名歌には御返歌のしようがない]話が違うと言いかける道長を抑えて[さてこの御名歌一同で吟じようではないか]広間に歌声が響いていく。道長の当惑げな表情に実資が微笑を送る、父君は囲い込みに失敗したな。戯れ歌を詠じて実資の歌を引出し褒めあげていい気にさせようとしたが、実資はその手に乗らなかった。一家三后その中に能信と母を同じくする姉妹はいない、明子の産んだ寛子が東宮妃になりかけたが、その下の妹尊子もこの栄光を手にする日はこないだろう。鷹司糸と高松系こんなにも明暗が、そして能信自身は今宵の女王威子に奉仕し駆けずり回っているだけ。寛子が小一条院との間に生まれた男子を死なせてしまった。それ以来すっかりふさぎ込んでしまっていたが、その年の十二月寛子は男児を安産したが、元気な産声をあげたはずが生後二日目に急死したしまった。一方で翌年鷹司どの倫子が儲けた末娘嬉子が敦朗に代わって東宮となった敦良のもとに入った、嬉子十五歳敦良十三歳。後一条に威子のような滑稽とも言える年の不釣合いはない。倫子所生の娘たちは全て後宮入りしたことになる。それに比べて我が家は寛子は東宮の座を滑った敦朗を夫とし、次々と男児を死なせいて、下の尊子は嬉子より一つ年上だが東宮入りの話さえなかった。東宮后になった嬉子に懐妊の兆しが、現帝後一条と威子には気配もなしなにしろ九歳も年上の叔母、はじめから強引すぎる組合せなのだ。身ごもった嬉子の方は順調であった十数年ぶりのこと姸子が禎子を生んで以来、是非とも男皇子をと皇子誕生となれば東宮敦良以来になる。丁度その頃寛子の健康が思わしくない、その急激な衰弱ぶりに驚き上東門邸で嬉子に付き添っている道長に使いをやった。が東宮妃も具合が悪くてと言う返事がきただけ。それでも日に一度は安否を間う使いだけはきたが、向こうには付きっきりで寛子を見舞っても下さらぬとは、能信はしだいに腹に据えかねてきた。寛子も同じ娘ではないか今は最後の回復を願うために出家しかない、出家して無動寺に籠っている兄の顕信を至急迎えた、命もがぎりと思われますと使いを飛ばすと、さすがに慌てて道長はやってきた。室内に入るなり絶句して寛子の枕許に跪いた。いや風邪がなかなか癒えなくてそれに東宮がお越しにと言いかけ口をつぐんだのは。周囲の人々への配慮だろう、父は日頃の落着きを失っておろおろとして母を顧みた。すでに病気回復のための出家が間に合う段階ではない。呼ばれた顕信はそのままあの世への旅たちのために戒を授けることになってしまった。ずっとここにいてやりたいのだが、道長の言葉には噓はなかったろうでもかれは起った。そうですかお帰りになられるのですな、多分今宵にも妹は死ぬでしょう。能信は黙って父を見つめた万寿二年七月九日。八月三日嬉子は男皇子を出産した待望の男の子は生まれたのだ上東門邸は沸き返るほどの騒ぎであろう。しかしその二日後嬉子が急死したのだ。十九歳であった父は号泣し鷹司どのは気絶したという頼通も教通も声も出ずに泣き伏しているとか。今迄勝札だけを握り続けてきた倫子ははじめて突然に不幸に襲われたのだ。今心の底でこだわるのは号泣したという父のこと、妹の寛子の死を聞いても駆けつけはしなかった、そのことをきっと忘れはしないだろう。嬉子の死によって東宮妃の座が空いたその座に人々の思惑は群がる、能信は今あの少女の面影思い描いた。中宮権大夫も悪くはない役目威子の皇子誕生を待ちながら、東宮妃の後釜を狙ってみたい。故三条帝に信頼されていた実資卿の養子の資平は姸子付の皇太后権大夫でもあり、その縁で緊密に連絡を取って禎子の東宮入りを推進する、嬉子を失ってからすっかり気落ちしている父に、東宮を降りた敦朗の異母妹でもある禎子内親王の東宮入りの承諾を取付けた。時三十一歳。禎子が東宮に入った直後から母の姸子皇太后が床についてしまった。その少し前からの道長も不調が顕著になってきた。能信の許に出家した兄の顕信が比叡山無動寺で三十四歳の命を終えた。慌てて父の許に駆けつけると父は口もきけないほどであり。兄頼宗とともに比叡山まで馬を飛ばせた。顕信の顔は頬こそ削げていたが眠るがごとく静かだった。兄が出家した時兄と同じ年の姸子が入内したが、姸子のその後は苦悩の連続だった。姸子もこの世を去った権力者の娘に生まれながら、思えば苦悩を味わい続けた一生だった。三条帝との間に皇子を儲けることができなかったばかりに、姉の彰子が二皇子を産んで栄光の母后として振舞う蔭で肩をすぼめ俯き続けて人生を終わってしまった。でも、あなたの産んだ禎子内親王は東宮妃栄光の未来が開けるかも。その冬道長の病状は急激に悪化した飲水病と当時言われた糖尿病であった。十二月四日一世の権力者藤原道長の息は絶えた六十二歳。不思議なことだが能信が味わったのは悲しみよりも一種の解放感だった。その次の年皇后威子が懐妊したが又もや皇女であった。威子の出産騒ぎが終わって禎子が懐妊した。余計者扱いされていた少女が東宮妃になれたのは能信が道長をそそのかしたのが功を奏したのだ。能信が密かに少女に賭けているのは不運の種子として生まれた娘だから。初めての懐妊だが禎子の体調には不安はないと言う。資平を通じて密かな援助を送りたい能信だが、中宮権太夫として威子にかしずく身としてはうっかり動きを気取られてはならない。しかし生まれたのは女児そしてその三年後今度こそはと期待したが女児だった。能信三十八歳。夫婦の間には子供が生まれなかった、兄頼宗の三男能長を養子にした妻はその内女の子も貰いたいと言う。気力が抜けていた、小さな命が生まれるのか生まれないのかそれがどちらの性微を身につけてくるのか、そんなことに振り回されて生きているなんて考えてみれば阿呆な話。その間に関東で起った平忠常の乱は終わっている、これを追討した源頼信はこれを機に関東に地盤を作り、後の武士勃興の基礎を築いた歴史的事件だったが。都の貴族たちは認識がなかった。能信に限らず彼らが関心のあるのは目前の出世と王者の交替だ。一歩退いてみればけち臭い出世争いと無意味な年中行事の連続だ。そうか兄貴はこんな気持で出家したのか、官途への不満か失恋かの問いは見当外れ、兄貴は笑って答えなかったわけだ。禎子の三度めの懐妊男子誕生、東宮の第二皇子の誕生尊仁と名づけられた。東宮の妃なんかに負けていられるものですか三十六歳の威子は女房たちに言っているとか。執念か威子は間もなく身ごもったが流産してしまった年が変わり後一条が急死したのが四月十七日、二十九歳でこの世を去った。それから数か月後突然威子が夫の後を追うように急死した。二十四歳から四十二歳まで威子に仕えていた中宮大夫の肩書をはずした。後朱雀帝の誕生である。天皇の代替わり禎子の産んだ二人の皇女が良子が斎宮、絹子が斎院に定められ皇子と共に内親王及び親王の称号が与えらた。禎子の立后が内定した、関白頼通に続いて禎子の中宮大夫をつとめてもらいたいと言われた。まちうけていたときがやってきたそれも自分が懇請しないのに。その時娘がいない兄頼通はなんと一条帝の第一皇子敦康親王の忘れ形見の姫君原子を養女にして入内させようと言うのだ。すでにこの世を去っている悲劇の親王と頼通は妻同士が姉妹であった。そう来たか鷹司系で入内した娘たちは四十九歳の彰子を残して全部死んでいる、彼らの血を受けているのは嬉子が命と引き換えたいま皇太子になる親仁一人。父道長が世を去って十年しかたっていないのに。その原子入内の話を聞いても禎子は動じなかった。禎子は皇后原子は中宮に能信は皇后宮大夫と肩書が変る。二年三年と原子は皇女二人を産んだがこの世を去った。今度は弟教通が娘生子を入内させた。その間に若宮尊仁と父後朱雀との謁見の儀が行われた。実兄頼宗の娘延子も入内した娘のいない関白の代わりだ頼通方であることを条件として。どうゆう了見で後盾のない尊仁などという廃れ皇子に肩入れするのは。なんとでも言え尊仁さまに即位の日はないかも知れない、だからこそ尊仁さまにかけるのだ。血を分けた兄が娘を担いで乗り込んで来るとは兄弟もあてにならなものだ。内裏が焼失火災後、御朱雀は体調を崩しはじめる人々はいまここで帝に死なれたら元も子もない。頼宗の娘に懐妊の兆しがあるもしかして男皇子かも知れない。皆皇后の見舞いを遮る特に尊仁親王との一緒は。人々が目の色色を変えて争うのは次の皇太子の座、天皇が世を去る前 の指名が優先する残る男子は尊仁しかいない。頼宗の娘が男子を産めばしゃにむに尊仁を蹴落として幼子を座につける工作をするだろう。寛徳二年[千四十五年]一月十五日能信は病床にある後朱雀の側近くに伺候した。殆ど危篤状態になっいる今を措いてその機はない間髪を入れず後朱雀の寝所へ進んだ。関白頼通が退出し人少なになった折を衝いたのだ。帝皇后宮さまにはお看護に伺いたい、と仰せられになっておりますが関白どのがお許しになりません。せめてお胸の思いを伝えよと思召で参上つかまつりました。伺いたいことが[親王さまの後出家の御師は誰方にいたすべき][親王の出家など考えてもおらぬ、あれは東宮に決まっているおる]まさに間一髪その三日後後朱雀は世を去った。親仁は践祚した後冷泉天皇同時に尊仁は皇太弟として立てられた。能信は東宮大夫を兼ねることになる。義弟公成が亡くなったのでその娘茂子を姉にあたる能信の妻は手もと置いて可愛がっている、時々禎子の邸へ連れていくと尊仁はいい遊び相手が来たとおお喜びするのだ、それが幼い恋に変わっていたのだ。尊仁は元服の添ふしに茂子を選んだ。茂子は尊仁が即位した時に中宮になれるかというと権中納言の娘ではまず不可能であるう。だが、茂子そのようなことを気にする様子もなく東宮のところにというと素直に頷いた。皆は後冷泉にお子様がいないのはいかにも寂しいと、女院彰子を動かして教通の娘が入内した。その最中茂子は女児を産んだその三年後男児を生んでいる。貞仁と名付けられたこの間尊仁は東宮妃として後冷泉の中宮章子内親王の妹馨子内親王を迎えているが茂子は動揺を見せなかった。この二人は後一条の中宮威子の所生だ、千六十二年末娘の篤子を産んだ二年後茂子は急死した。茂子の亡くなった三年後能信も権大納言のまま世を去った。高松系の鷹司糸への報復はもう一歩四年後、後冷泉は世を去り尊仁が即位した後三条天皇である、母后となった禎子は女院陽明門院として後三条の背後で隠然たる勢力を持ち、能信が傍らにいるかのように頼通教通の政治に正中を加えた。茂子が死んだ時十歳だった貞仁こそ後の白河天皇であり即位後摂関の影響力は薄れていく。貞仁は大夫どのと敬称し能信を懐かしんだという、白河天皇が退位してから院政がはじまる。
 後記、藤原実資九十歳まで生き小右記を書き残す。女院陽明門院禎子は長命で曾孫の堀河天皇の即位まで生きた。



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