体験格差えぐい|文化活動の格差
総合型選抜の時期がやってきて、あれこれしている。
けっこうおもしろい仕事のうちの1つ。
※総合型選抜→昔のAO入試、まあ要するに公募推薦入試というやつです
学力以外の自慢をしていただくような入試なので、出願書類のチェックがとってもおもしろいし、一方でとってもむかつきます。
何にむかつくかというと、「こんなん自分の自慢に見せかけた自分の学校と自分の親の自慢じゃないか!」「教員と親のお膳立てがみえみえではないか!!」「本人の意思はどこに?!」みたいなやつが多すぎる!!!!!
あたかも自分自身の自慢のように提出されていますけれども、いやいや、全然違う。よく調べてみるとわかる「おいおい」「あーそういうことね」という闇が多すぎる。
たまに出てくる地方公立からの出願の「ほんとうに自分自身で努力して道を切り開こうとしていることがうかがえるもの」「自分の意思で活動しているもの」「ほんとうに入学したいんだという意思が感じられるもの」に、みんなで感動している、多分、出願するだけでも学校とひと悶着あると想像できる…。
(わたしの出身校はAO禁止、指定校推薦も禁止、そもそも私立大学行くの禁止!とか意味わかんない方針だったので、出願しようと相談した時点で怒られたと思う。そしてそもそも、AO入試の存在を知りませんでした。)
まあちょっとここに書けないことも含めて、色々と腹が立ち悪口がとまらなくなり(笑)、関連する本を買いました。職場で回し読み中。
内容詳細は割愛。おもしろかった~。自分の「むかつき」の正体を筆者がたくさん言語化してくださってて、すっきりしました。
推薦入試といえば、いつも思うのですが、どうしてスポーツは高等教育カリキュラムの中に組み入れられているのに、芸術はそうじゃないのかね。
この間のドラフト会議でも、指名選手や指名候補選手の中に自分の大学の学生が何名かいて話題になっていたのだけれど、自分の大学は体育大学ではないので、つまりこの方たちは一般の学部に所属しながら(=一般の学部の学位を取得する見込みで)、一方で野球のプロになれるような環境があったというわけなんだよね。
大学が野球部を持っていて、有名な監督を用意していて、勉強すら、スポーツに打ち込む人用のちょっとゆるいカリキュラムが用意されているの(それでも学位はもらえる)。そもそもスポーツ推薦で入学しているので、入試すら、テストを野球で代替することを一般大学が認めているの。
これ、音楽だとありえないよね。例外的に、かてぃん(一般大からプロの演奏家になった方)みたいな方もいるにはいるけど、この方は自力で外部のコンクールを受けるなどして演奏家の道を切り開いただけで、所属大学の肩書で演奏活動をしていたわけではないし、大学の教育カリキュラムが活動を助けていたわけではないし、ピアノで入試を突破しているわけでもないし。
音楽に打ち込む人用のカリキュラムなんて、「学位が音楽学になる人」以外で聞いたことない。スポーツに打ち込む人のカリキュラムは、一般大学がいくらでも用意しているというのに(用意できるということはつまりもっと上の機関、文科の許可があるってことだものね、すごいよね)。
箱根駅伝も然り、他にもいろいろと、どうしてスポーツで社会貢献する人材は一般的な高等教育機関でも育成する社会なのに、芸術で社会貢献をしようと思うと、それはすべて音大や美大に委ねられないといけない社会なのかね?
いつも不思議。
芸術やってる人に変わり者が多いのも納得というか、その人が元々持っている「変わり者素質」とは別に、社会性がなかなか身につかないくらい社会の隅に追いやられる「芸術省かれ構造」みたいなものが、社会の中にあると思ってるんだけど…違う?
ほんと、ピアノだけやってきていたら、全然社会性身につく気がしない…孤独極める…(部活と楽しい学校生活があってよかった)
(ほんとに偏見です)
「学力なかったけどサッカーできたから高校も大学もそれで入った」は、よく聞く話だけど、「学力なかったけどピアノ弾けたから高校も大学もそれで入った」はないもんね?どうしてそういう構造ってないんだろ。同じ「文化活動」なのに。
わたしには答えは出せないので、
「文化活動において、大衆化したスポーツと、差別化され続ける芸術。それぞれの社会構造は、どのように異なっているのか」
みたいなことが書かれた本はないのかな~と前々から思っている。
読みたいのですが、、
ちなみにわたしは箱根駅伝がとっても好きです。笑
ほら、これさえも、わたしは陸上をやったことがないけれど箱根駅伝にそれなりに詳しくなってるのよ、これってメディア(お正月の放送)が駅伝の大衆化に一役買ってるからわたしのような陸上未経験者でも楽しんでるわけで、芸術は全然大衆化しないものね。知る人ぞ知る世界になっちゃってるもんね、なんなんだろう。
今日もお疲れ様でした♩