ギブアンドテイクの傲慢
ギブアンドテイクについて考えた。
ギブアンドテイクとは、言わずもがな、相手に与えたり相手から受け取ることです。人との関係においては、優しさとか想像力とか、愛とかを。
これの傲慢を考えた。
そして、
「ねえ、最近考えたんだけど〜
これってどっちが孤独だと思う?」
と友達に聞いてみた。
※ここでいう孤独は、「ただひとりの状態」のことで、寂しさとか崇高さとかそういう意味は含まない
ちょっと、ここでも問いかけてみていいかなあ。
A ギブ側の傲慢
・ギブしたい相手じゃないとテイクされたくない
・愛されたからといって愛せるわけではない
・わたしが好いてもないのに好いてくるな、という傲慢
・誰からも好かれるわたしがとりわけ好いてるんだから、あなたも好いてくれて当たり前でしょ、という傲慢
敬意を持って接して、人を思いやって、はじめて人の優しさや人からの好意を受け取れるという傲慢。
自分が与えたら、必ず同じだけ返してねという傲慢。
B テイク側の傲慢
・テイクされないとギブできない
・愛されないと愛せない
・わたしのことが好きなら好きよ、という傲慢
・わたしがあなたの好意に時間を割いてやってるんだから感謝しろ、という傲慢
人に優しくされて、人に好かれて、初めて人に敬意を持って接したり、思いやることができる傲慢。
あなたの好意を受け取るから、だから絶対に好意を与え続けてね、という傲慢。
これを説明したら、友達は、Aは「質的な孤独」、Bは「量的な孤独」を味わうってことじゃないかと言っていました。
Aは、ギブからはじめるから、好いてくれる人の数(量)は多いけれど、でも、本当に自分を好いて欲しい人に、同じくらい好かれるかはわからない(質の孤独)。
Bは、ギブしないからあんまり好いてくれる人いないけど(量の孤独)、そんな中でも好いてくれる人は本当に自分を好いてくれる(質)人。
おお。友達すご〜
お互いがギバーでありテイカーであることが理想で重要なことは言わずもがなだし、AとBはあまりに極端な書き方をしましたが、きっとみんな、少なからずAかBかどちらかに所属していて傲慢で、そしてそれぞれの孤独を味わってるんじゃないかと思うんですよね。
みなさんはどっち?
(ちなみにわたしはA)
なんでこんなことを考え始めたかというと
先日、ピアノの友達が携わっているNコン(NHK合唱コンクール)の全国大会を、同じくピアノの友達と聴きに行ったのですが、課題曲で、俵万智さんの詞のある部分が、とっても哲学的で、考えさせられて。
「愛と愛が戦う時」
これって、ギブとテイクの持つ傲慢さをぶつけた時のことなのかな〜って、思ったの。
与えたい人と、与えられたい人が戦う時、どうなるのかなあって。
思っただけ。
どうなるのかは、知らない。笑
こういう抽象的なことを考えるくらいには現実逃避の時間があり、そして、それを適当に話せる友達がいるというのは幸せだね、暇かよ。
じゃ、そろそろ現実に戻ります。
といいつつ、実は旅行中
今日もお疲れ様でした♩
(終わりの言葉はこのフレーズと決めているので書いたが、まだ10/14になって2分しか経っていない…)
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