公立中学校教員として4年間部活指導して分かった部活動の真実〜部活論争で見落とされている6つの点〜 日本の学校考察#2
「やっぱもう限界。仕事は好きだけど、体力がもたない。」
そう言って、自分の友達は学校の先生を辞めてった。とても教育に熱い思いを持っており、スマートであり、生徒のことをよく思っている友達だった。
辞める原因は様々あるが、その原因の一つで出てきたのはやはり今話題の「部活」である。
「ブラック部活動」という本が出たのが2017年。
その後メディアでも多く取り上げられて、問題視されるようになってきた2018年に自分は新卒で公立中学校の教員になった。
「部活動」 という活動は文科省によると、「教育課程外」であり、スポーツ庁は「生徒の自主的、自発的な」活動である。
問題となるのがそういった教育課程外の部活動が占める割合が、教員の業務時間内外で多く時間が裂かれていき、精神的、身体的精神的にかなりの負担になっていることである。
本来学校の教員とは「教科指導」「授業」が一番のメインの仕事である。部活指導に割く時間の増える割合が高くなってきて、その分本来来やるべき時間や教科指導の時間が減り、授業や授業準備にに集中できないという現状かおきる。
実際、教員自身は、「部活」はやりたいのだろうか??
自分が働いてきた2018年からの4年くらいでは、部活を本格的にやりたい、と言う先生は25%、4分の1くらいな感じがした(主観である)。
もちろん「部活を教えたくて先生になる」人もいると思うが、部活動を教えるための免許も部活動のための指導も、教員養成課程に一切ない。
スポーツの教え方、部活動の指導の仕方などを準備されないが、実際にはやらなければいけない。
そして今まで一度も経験したことないスポーツや競技を教えなければいけないという そんな可能性もあるのが現状である。
最近給特法が改正されて話題になっているが、部活動手当・残業代は、割りにあってはいない。
こう言った現状がなぜ起こっているかは様々な理由があるか、今回このnoteでは、自分が部活動の経験とそこから見えてきた、今までの部活論争であまり語られない5つの視点を述べたいと思う。
この体験と考察はあくまでも自身が公立中学校で4年間体験した個人的な意見であり、市や県によって状況が違うというのは承知であるが、この自分の体験は多くの教員経験者に共感してもらえるのではないかと考えている。
自分が教員になった理由の一つは、教育に常に関心を持つものとして、学校の中から教育を見てみたいと思ったからだ。
様々な教育への意見や批判はもちろん悪くはないのだが、実際に中で何が起きてるのか、どうゆう原理・原則で学校が動いている、を理解したかった。
今回は自分が教員として働いてみてわかった、様々な視点を共有したいと思う。
今回は自分が気づいた6つの点に加えた後、今自分がいるアメリカの事例などを最後に述べていく。
現在部活動で苦しんでいる先生、これから教員になる人、保護者の方に、部活動の構造を知りたい人にはぜひ読んでもらいたい。
1, 部活は誰がやりたいのかと言うと、やりたいのは「生徒」。それを後押しするは、保護者と周りの空気。
「誰がやりたいか」というか、これは教育委員会がやれと言ってるのか、国がやると言っているのか 親がやれと言ってるのか。
ケースバイケースであるし、一般的には言えないが、シンプルに一番やりたいのは「生徒」ということだ。
「スポーツの技術を上げたい」「勝ちたい」「好きなスポーツをやりたい」というシンプルなモチベーションで、部活をやりたいという生徒はかなり多い。
「部活大好き先生」ももちろんいるが、多くの学生は「中学校になると部活をやりたい」というようなモチベーションで上がってきて、「中学生は部活」だというような熱意で入学してくることが事実である。
先輩や兄弟、メディア、漫画、周りの影響から「部活への憧れ」がある。
これは日本社会が生み出している現象であり、社会的・長期に渡って培われてきたものである。
「朝練を頑張る」「大会に出る」「優勝する」「練習試合に行く」
こういった多くの場合は、「生徒がやりたい」といっているのが、実は部活の多く語られないことである。
これはブラック部活動の原因が「生徒である」といいたいのではなく、そもそもなぜ存在しているかというと「生徒のやりたい」が根底にあるということが多く議論されていない。
だが、ここで重要なのは、「どの程度やりたいか」「何を目指しているか」は非常に個人で異なるということである。
県大会出場を目指している生徒もいれば、ただ放課後楽しくやりたい、という生徒もあり、ここのモチベーションの擦り合わせが非常に難しく、「モチベーションの差」が生まれるのは中学校の「自主的、自発的な活動」の部活ではよくある。
そして、保護者は「子どもの見方」である。子どもが望むものを望む。
「子どもが部活をしたい」と言えば、「保護者もそれを望む」これは自然の原理である。
また、それに加えて、「部活」は非常に保護者にとってはありがたい側面がある。
なぜなら自分の子供を、教員免許があり、信頼できて、ある程度スポーツの知識がある人が無料で教えてくれるからである。
保護者が働いている時間に、学校で勉強だけではなくスポーツも見てくれ、スポーツ技術だけではなく、チームプレイ、努力の重要性なども教えてもらえるなんて、最高すぎるではないか(そうならない場合もある)。
これは、学校が生徒のいる場所になるという福祉的な機能も果たしている。
部活で最高な経験ができないとしても、最低限家の外に出てゲームなどではなく、スポーツやある程度彼らの将来の価値になるような体験をさせているような機会は使わない手があるだろうか。
このような保護者の後押しに加えて、社会の後押しもある。
社会の後押しというのは、社会の多くの人が部活を体験しているという事実である。
そして、部活が辛かったけど、「あの辛い体験があるから今がある」という美化されていて、この美化された体験が日本社会に部活文化に継承されている。
なので、部活は大変だし、辛いし先生も大変なんだけれど、「どっちかって言うとやったほうがいい」という社会全体の空気感がある。
そして「じゃあ部活をやめよう」としたときに、そこへの抵抗感や「今まであったことがなくなることへの恐怖」という損失回避の心理が働き、「結局やったほうがいいよね」と言うようなことで、このシステムが継続されてる。
2, そして、その声に先生は全力でサポートしてしまうという現実
そういった 現状に対して、「学校の先生がイエスと言ってしまう」という状況が起きているためにこの状況は改善されない(Noをいう先生も最近増えてきたが)。
「なぜなら、生徒が頑張りたい。努力したい」と言っている時に、生徒思いな先生が多いため、「それならやってやろう」という先生の良さが出てしまうのである。
「練習をしたいです!」「練習試合して、上手くなりたいです!」と目をキラキラさせて言われたら、「しょうがないなぁ」と言って教員の性が出てしまう。
また、「イエスという」要素として、「同調圧力」「周りからの目」「見栄」がある。
他の部活が朝練、土日、練習試合をやっているのに、ある部活だけ練習量が少ないと、「あの部活は全然やってくれない」と教員に非難の目が生徒と保護者から向くのである。
これに、「私は私ですから」と強く意志を持てる人もいるかもしれないが、なんだかんだ周りと合わせるために、結局部活を多くしてしまうという現象が起きる。
「生徒のために頑張る」「いい先生でいたい」という見栄も入ってくるだろう。
そんな中で、特に若い先生・初任の先生などはそういった プレッシャーに逆らえることもなく、指導力もない中で立場が弱く、「Noをいうのが特に難しい」。
学校の授業に慣れるので精一杯の中で、部活もやらなければいけないという苦しみがあり、ストレスが溜まっていくのである。
「3年目までは、むしろ部活も持たずに授業に集中すべき」というガイドラインがあってもいいくらいなのに、「若手にやらせよう」という空気感がある年功序列の学校組織である。
3, 部活動は、先生の指導力を上げる絶好の機会である
と言いつつも、「部活動は、先生の指導力を上げる絶好の機会である」という事実にも目を向けていきたいと思う。
あれだけ大変で時間が取られる部活であるが、部活指導で指導力が上がることがある。
部活指導が上手い先生は教科指導も上手かったりする。
なぜこの現象が起きるかというと、シンプルに部活動を指導することで指導時間が長くなるからである。
朝練、放課後、土日と指導時間が長くなれば、その分指導も自然に上手くなっていく。
また、血気盛んな中学生をまとめて、一つの目標・ビジョンを掲げて、そこに導いて鼓舞して作戦を考えて勝利に導く経験は、指導力を上げるのは絶好の機会である。
実際、自分もサッカー部の顧問として働き、とても良い経験になったし指導力は確実に向上したと思っている。
知識を教えるのではなく、技術を教えることは、教科指導とは別の側面もあり非常に興味深い。そしてチームを率いる監督としての判断やリーダーシップの経験はかけがえのないものであった。
その際に多くの先生にお世話になって、様々なことも教えてもらったのにはとても感謝をしている。
「部活を指導することで、教員の指導スキルは向上する」というのは多く語られない側面である。
だが、やはりその分大変であり身体的にも精神的にもきついので、エネルギーはかなり使われるのは事実である。
「効率が良いのか」「長期的に持続可能なのか」「それに耐えられない人もいる」
という意見は決して無視すべきない議論である。
「部活はまるで指導力を上げる劇薬」なのであり、その分のコストも大きい。
そのコストの代償は、先生の残業、過労、退職、教員の不人気と大きすぎる。
そのコストはあるが、実際に部活が教員の指導力の向上に寄与しているという点があまり語られない点なので、ここで上げておこうと思う。
4, 学校の先生は部活指導だけでなく、大会運営もしていて、そこに時間もかなり取られている
そしてこの部活の中であまり多く語られない・とても労力が使われているのは、教員が市大会県大会全国大会の企画運営をしてると言うことである。
「教員が大会、県大会、全国大会を運営している」
この事実を皆さんは知っているだろうか。
大会の企画、割り振り、コートの準備と予約、学校の調整、審判の配置、危機管理も全て教員がやっている。
土日の時間を使って、 自分のチームが出ない会場に2-3時間車で、移動して審判をしたこともある。
コロナの時は、台風の中ボール拾いのために会場に行ったこともある。
審判をするためには、審判資格を取らなければいけなく、審判着、審判セット、ライセンスの取得は全て自己負担である。
「生徒のために公平なジャッジ」をしなければいけないので、常に最新のルールを学び、研修もある。
これらは、部活の直接的な指導時間ではなく、部活関連の準備時間という、新たな労働が入っていて、ここに取られる時間もじわじわ来る。
特に、自治体の中でリーダーになった先生の負担の多さは、計り知れないし、家庭の時間なども犠牲にせざるを得ない。
ここまでしてやる必要があるのだろうか。
5, 部活動指導員の受け入れの現実
ここでよく出るのが部活動を外注して部活動指導員に任せることである。
この制度は学校の外部の人が、学校に来て部活を指導してくれるという制度であるが、なかなか導入が進まないのが事実である(進んでいる地域もある)。
この現状としては、シンプルに部活動がある時間(朝練 7:00-8:00、午後練16:00-18:00)に来れる人が少ない点だ。
基本的に多くの人が働いている。
またその学校に来れると言う事は、その学校へのアクセスできる範囲の人に限られている。
そして、そのスポーツの専門性だけではなく、中学生の発達の理解、生徒との関係の気づき方も知っていなければならなく、誰もができるわけでもない。
中学生というとてもセンシティブな時期で、生徒自身もとても難しい時期を送っているときに、温かく、愛のある指導をする必要がある。
そのような指導をできる人は、とても貴重な人材であり、それをボランティアもしくはとても少ないお金でやってくれる人はあまり多くないのが現状である。
「適切な言葉を使って指導する」「勝利史上主義になってしまわないようにする」「生徒と関係が築ける」「保護者対応ができる」
このような人材を探して、学校とマッチするのは困難なことが多く、結局学校の先生に任せてしまおうという現状である。
6, 若手教員の権威化・高圧化と生徒のプレーの嘲笑
これは部活指導をしていて感じた、とても危険な側面であり、指摘したいと思う。
部活指導を通して、高圧的になっていく若手教員を何人も見た。
自分自身もその一人になりかけた。
というのは、部活を指導していくにつれて、上手くいかないことがある。
生徒が言うことを聞かないのだ。
優しく言ってもダメ、あの手この手を使っても、指導が入らない。
若い時はどう生徒と接したりすればわからなく、指導のタイミングを何回も逃しているため、こうゆうことがよく起きる。
詳しくは以下「若手が失敗する学校の構造」を参照。
そんな時に周りにいる部活をしているベテランの先生が「高圧的・権威的」に生徒と接していて、生徒はその先生の言うことに従順に従っている。
「こうすれば良いのか」
と周りの先生を見て、真似て、習って、同じことをする。
そして、「怒鳴ったり、大きな声を出す」ことで確かに、一時的には効果があり、生徒も言うことを聞くようになる瞬間がある。
そして、気づいたら「怒鳴る」「高圧的に接する」「罵声を浴びる」指導が習慣化する。
特に若い先生は、経験もなく、扉の引き出しも少ないため、気づいたら「権力に頼る」ということに慣れてしまう。
実際にこれに自分も半分陥ってしまっていた時期があった。
権力に頼り、大きな声を上げることがよくあった。それ以外の方法がわからないのだ。
生徒が言うことが聞かずに、指導も入らずに、取り敢えず指導をしなければいけなく「怒鳴ってしまう」。
そうなっていた時期があったが、「やはりどこかでおかしい」と感じていた。
「怒鳴る」というのは基本的にはしていけないと自分は考えている(本当に緊急な事態で生徒の行動をその場で止める場合以外)。
そしてやはりこのままではいけないと思い、「怒鳴らなくても」、指導する方法を周りの先生から見て教わった。
「傾聴・信頼・愛情」ベースの指導であり、途中からは「権威的」に指導する必要が一切なくなった。
だが、周りの同期や若手の先生を見ると、気づいたら「高圧的な先生」になってる。
そして、「高圧的」になった先生たちが、生徒のプレーを嘲笑う、バカにする、非難するといった瞬間も見られ、非常に憤りを感じた。
これを見た後は、「若輩者なのを承知の上で申し上げますが」ということを枕詞に乗せて市の運営の先生方に文章で抗議をした。
この文化は絶対に変えなければいけないと自分は思う。
海外事例
海外事例として、自分がアメリカの学校で見ている一例を上げる。
アメリカでは、教員が部活をやるかどうかは完全に選択制であるところが多い。
そして、部活の期間はシーズン制で3ヶ月程度である。それにも関わらず、手当は70万円程度(ボストン)である。
担当がいない場合は、部活がなくなり、「去年までは担当者がいたが、今年はない」という現象が起きる。
サッカーの試合も審判を3人雇うお金がないため、主審1人で副審までやっていた。
本格的にやりたい人は、外部クラブに通っており、学校の部活は日本の部活ほど熱心に行われていない。
これはアメリカ的な教育と日本の教育的な違いで、日本では学校の役割が「全人格の教育/ホリスティック教育= 勉強だけではなく、スポーツや人間関係、精神的なところも教える」ことに重きを置かれるが、アメリカでは、「勉強」を教えることが重視される。
これは、教員の役割にも関連していて、日本の教員は「教科」以外にも、「行事、部活、生徒指導、委員会」など多くあるが、アメリカの教員は「教科」以外は担当しないことが多いことにも現れている。
総じて、日本の教育はより「生徒に様々な教育機会を無料で与えている」とても生徒にとっては良い環境であり、アメリカは「個人」が責任をとっている。
その結果、運動能力なども平均的に日本の方が高いし、健康的である(オリンピックのメダル数はまた別、平均的には日本の方が高い)。
アメリカ人の方が不健康であるが、個人の責任で社会・学校の責任ではない。
このように海外事例と比較して、良し悪しがわかるだろう。
まとめ
以上のようにこの記事では、部活動で今まであまり論じられてこなかった視点を書いた。
こういった問題の時に、誰か一人を批判するのは簡単だが、このような長い間解決してない問題は多くのステークホルダーがが関わっていて、様々な所へのアプローチが必要である。
法改正だったり、システムの話、校長や教育委員会の徹底したアプローチ、 先生の思いと自己管理、 生徒や保護者の学校への期待、 部活動指導員の整備など。
管理職は、部活問題には敏感になってきていると感じる。
メディアもあり、「部活動が本当に良いものなのか」ということを批判的に考えている管理職も増えてきている印象である。
教育委員会もガイドラインを改めて見直して発表したり、部活動の再改革の運動はあると思う。
但し、それらの変化は「ゆっくりな変化」であり、どんどん教員になりたい人が減っていって、日本の教育が苦手な「急速な対応」が求められるのではないか。
そのために、「声を上げることの重要性」「嫌われる勇気」「おかしいことをおかしいと言える雰囲気作り」は大事である。
自分が今いるアメリカでは、デモやストライキがよく起こる。
デモやストライキにも賛否はあるが、「間違っていることを間違っている」という。
「おかしいと思うことをしっかりいう」「声を上げる」ということはとても学校や教育界で大事だと思う。
まずは朝練から廃止しても良いのではないだろうか。
コロナの時の朝練廃止でどれだけの先生が喜んでいたのか計り知れない。
「より効率的・効果的で、エビデンスベースの部活へ」
ということを自分は部活の顧問をして思いましたが、皆さんはどう思いますか?
20240818 中村柾 @Boston
日本の学校考察シリーズ1