052.父の召集令状
父の十七回忌も過ぎ、今となっては、なぜもっとちゃんと話を聞いておかなかったかと悔やまれることがありますが、そのひとつが父の召集令状にまつわる一連の話です。
父に召集令状が届いたのは、昭和20年(1945年)8月に入ってからでした。父はちょうど二十歳でした。
その頃、父は大阪で電気工学を学ぶ理工系の学生でした。昭和18年に学徒出陣で20歳以上の文科系学生が徴兵され、昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に下げられる中、父はかろうじて学生を続けていました。しかし、実際のところは勤労動員で和歌山県にある軍需工場で働いていたということでした。和歌山県のどこにある工場で、どんなものを作っていたのか聞いておけばよかったと思いますが、もうわかりません。
そして、昭和20年(1945年)8月に入り、それは後世の私たちから見れば終戦間近のことですが、当然のことながら当時の人々にとって一体いつまでこの戦争は続くのかわからないという状況の中、遂に、父にも召集令状が来たそうです。
父の郷里は、宮崎県のとある小さな城下町でした。召集令状が郷里に届いて家族から連絡が来たのか、それとも大阪(和歌山?)にいる父の元へ直接届いたのか、また召集令状が届いた日にちと入営日、どれも聞いておけばよかったけれど、もはやわかりません。とにかく父は、大急ぎで決められた日にちまでに本籍地の郷里に戻って、出征しなくてはならないこととなりました。
身支度をして、すぐに九州に向かう汽車に乗り込んだのだそうです。汽車は超満員だったと言っていました。しかし、入営に遅れるなどということは決してあってはならないことでした。
父はおそらく大阪駅から神戸駅を経由し、山陽本線に乗って九州の玄関口である門司駅を目指したものと思われます。もしかすると山口県の下関駅で北九州市の小倉駅行きの汽車に乗り換えるつもりだったのかもしれません。そして小倉駅で日豊本線に乗り換えて、さらに九州内を南下しなくてはなりませんでした。
いつだったか父が、「昭和30年代(1955-1964)には大阪から郷里へは優に三十時間以上はかかっていた、今なら地球の裏側のブラジルへ行くような感覚だ」と言っていたことがありました。入営のための郷里への旅は、飛行機の座席に座っていく三十時間と違って、鈴なりの汽車に揉みくちゃにされながらの三十時間になることを覚悟していたことでしょう。
ところが、父の乗り込んだ汽車は、広島の手前まで来たところで動かなくなりました。「新型爆弾」が落ちたからだということでした。もうこれ以上汽車は前には進めないという話でした。
そこで父は、線路の上を西に向かって歩き出したのだそうです。おそらく他にも父と同じように線路を歩く人々は大勢いたことでしょう。
◇ ◇ ◇
新型爆弾の落ちたばかりの広島の街を抜け、さらに西に歩き、そして再び汽車に乗り、関門海峡を越え、小倉まで辿り着いた時、「大阪から来た学生が、新型爆弾の落ちたばかりの広島を通ってきた」ということが小倉の連隊に伝わり、連隊長の前で広島で見たことを報告することになったと、父は少し誇らし気に語りました。
私自身は大尉と大佐のどちらが偉いのかもとっさにはわからないほどの軍隊音痴ですが、一介の学生が連隊長の前でじかに報告をするということは、当時の父にとっては大変に名誉なことだったのかと、その口調を聞いて私は思いました。連隊長は父の報告を聞いて「参考になった」とねぎらいの言葉をかけてくれたそうです。
小倉を出て、父はさらに九州内を汽車で南へ向かい、ようやく郷里に辿り着きました。しかし帰郷した途端に玉音放送となったそうです。近くの電気屋さんで近所の人たちと共にラジオを聴いたと言っていました。
◇ ◇ ◇
父の召集令状の話を聞いたのは、私が三十歳か三十五歳か、とにかくもうすっかり大人になっていた頃でした。ある時、たまたま何かの用事で父とふたりきりで車に乗っていた時に聞きました。
私は父によく似ていると、親戚や近所の人や友人らに言われ続けて大きくなりました。そして実際、私自身も自分が父にそっくりだと感じています。今こうして文章を書いていても、こういうことを書き残したいと思う気持ちそのものが父と同じだと感じています。興味や関心事、読む本の傾向などもよく似ていました。字までそっくりだと母や弟に驚かれました。真似して書いているのかと聞かれたことさえありました。
けれども実際には、私は父とほとんど話らしい話をしたことはありませんでした。なぜなら父とはうまくコミュニケーションをとることができなかったからです。父はどういうわけか、私にだけ瞬間湯沸かし器のように腹を立てました。母にも弟にも声を荒げたことはないのに、私にだけ手が出ました。父は私の中に自分自身を見出し、私という存在を通して、父自身に腹を立てているのではないかと感じていたほどです。
それでも、父が私のことを信頼し、大切に思ってくれていることはわかっていました。高校・大学に進学する時も、そして会社を辞めてフランスへ行きたいと言った時も、転職をする時も、心から応援し後押ししてくれたのは父でした。
私はこの召集令状の話を聞いた時、父はこの話を私に言い残しておきたかったのだろうと思いました。それならば、もっとちゃんと細部まで質問して、記録しておくべきだったかもしれませんが、私自身、そもそも父と会話をすることに慣れていなかったし、この話をどのように消化していいのかもよくわかりませんでした。
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あの日の広島の鉄道運行状況を調べてみると、次のように記録されていました。
昭和20年(1945)8月6日午前8時15分広島の上空で炸裂した原子爆弾は一瞬にして全市を壊滅させた。爆風で破壊された建物は灼熱の閃光によって火災を起こし、数十万の市民を死と原爆火傷の恐怖の中に落としいれてしまった。(中略)
爆心地から500m以内では、即死・即日死の死亡率が約90%を越え、500mから1km以内では、約60〜70%に及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25%が死亡していった。(中略)
火災は市内中心部の半径2kmの家屋密集地の全域に広がった。大火による大量の熱気は強い上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強風を生み出し、火災旋風を引き起こした。風速は次第に強くなり18m/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒れた。火災は半径2km以内の全ての家屋、半径3km以内の9割の家屋を焼失させた。
広島駅は爆心地から直径2kmにあり、原爆の炸裂と同時に爆風によって本館前に張り出した木造建物が壊滅し上屋の転落によって多数の旅客がその下敷きになった。各ホームの上屋は屋根が吹き飛ばされほとんどの柱は折れたり、捻じ曲げられたりした。この悲惨な状態の上に覆いかぶさるように襲ってきたのが火魔だった。(中略)
山陽本線では、広島を中心とする折り返し運転を、折り返し駅を上方は海田市、下方は五日市として、変則的に動けるだけ動かしたようだ(小谷春夫氏資料/鉄道博物館蔵)。
とにかく半径1.5km以内の人はまず即死で、それ以上の人がやっと安全地帯に逃げることができる程度だった。原子爆弾による人的被害は正確にはわからない。昭和20年11月30日現在で広島県警察部が発表した推定数が信頼性が高いといわれるが、21年8月10日広島市調査課がまとめたものを基礎にして推定された数字は総人口32万81人対し死亡者11万8661人(38%)、負傷者7万9220人と生死不明者3667人の計8万2807人(25%)で、以上被害者合計20万1468人(63%)、無傷者11万8613人(37%)となっている。ただし約4万人居たといわれる軍隊の被害は含まれていない。また、8月6日朝、市内に入った郊外からの一般通勤者および官庁・会社・工場あるいは建物疎開作業に出動してきた人々は推定2万人で、昼間人口は総計37万人程度となる。40万人前後であったという見方もある。8月6日午前0時から8時30分の間に広島・横川両駅に到着した列車に関する調査資料によると、総計23本(本線上り5本、本線下り8本、可部線3本、芸備線3本)を数えるが、いずれも超満員であったし、市内電車もバスも長い列を作っていたという混雑ぶりであったようだ。
国鉄では被爆当日は被害の軽微であった近郊の駅から折り返し運転が行われて、奥地への避難者や負傷者の輸送に尽くした。同時に通信区の電話線の復旧が急がれ、この日の夜のうちに広島〜向洋間が1回線開通するとともに糸崎、岡山との連絡や広島〜横川間の架線が進められた。広島駅の応急復旧、横川、己斐両駅の整備などを夜を徹して行った。被爆当日は山陽本線、芸備線は運転を停止していたが、7日宇品線が平常運転に復し、暁部隊や宇品港を結ぶ救急列車を走らせた。必死の努力の末、8日には山陽本線が開通した。ただし、広島〜横川間は単線で旅客列車のみ運転した。9日芸備線が全面開通し、郡部との連絡が円滑になった。県北に通ずる可部線は横川〜長束間が普通になっていたが、18日頃その間の長束〜三滝間が開通してようやく全線運転となった。
石井幸孝著『戦中・戦後の鉄道』 JTBパブリッシング(2011)p.100−104より抜粋 (太字は引用者)
この記録のおかげで、父が広島を通過した日にちをある程度限定することができます。それにしても筆舌に尽くしがたい惨状の中、人々がわずか2日間で山陽本線を復旧させたとは信じ難いことです。必死の努力に頭が下がります。
8月6日午前0時から8時30分の間に広島・横川両駅に到着した本線下りの汽車の本数は8本、しかも超満員だったということですから、戦時中の輸送力にもおどろかされます。父の乗っていた汽車はどこで停まってしまったのでしょうか。
Google Mapsで見ると、上の記録の不通区間であった広島の東6.2kmにある海田市駅から、広島の西12kmにある五日市駅までは、距離は約18km、徒歩で約3時間45分かかるとなってます。
乗り換え案内で調べると、海田市駅から五日市駅へは山陽本線の各駅停車で8駅。海田市駅、向洋駅、天神川駅、広島駅、新白島駅、横川駅、西広島駅、新井口駅、五日市駅。現在の各駅停車の電車なら約30分で到着するとあります。
実際には、海田市駅よりももっと手前、つまり神戸寄りで汽車が停止したとも考えられますから、歩いた距離は18kmどころかもっと長い距離だったかもしれません。
父の乗った汽車は、広島の手前までは順調に運行されていたということでしたから、6日の原爆投下当日に広島に入ったと思われます。もしかすると広島入りしたのは翌7日になってからかもしれませんが、8日の山陽本線開通時よりも前に、広島を徒歩で通過したのだろうと推測されます。
父が目にした光景は、多くの人々が絵に描き、写真に撮り、詩にも詠われ、体験記でも語られました。小説や映画が作られました。マンガやアニメにもなりました。
焦土と化した地獄のような広島の街を、二十歳の父は、線路の上を西へ西へと歩いていきました。それはこのような原子爆弾を投下する敵と戦うため、出征するための歩みでした。
連隊長に報告したという「広島で見たこと」について、父は生前、ただの一度も私たちに語ったことはありませんでした。
◇ ◇ ◇
父が小倉に到着したのが何日だったのかもわかりませんが、8月9日に長崎に落とされたプルトニウム型原子爆弾は、当初、小倉に落とされる予定だったといいます。「歴史に『もしも』はない」といいますが、6日、7日辺りに広島を抜けた父は、9日辺りに小倉にいた公算は大きかったと思います。父は原爆とニアミスしながらも、うまくすり抜けていったようでした。
しかしながら、この文章を書きながら長いこと忘れていたある場面を思い出しました。
戦後、父は母と結婚し、私と弟が生まれました。父はその頃から髪の毛が薄かったのですが、弟がまだ幼稚園に通っていた頃、無邪気に父の頭を撫でながら「どうしてハゲているの」と質問したら、「放射能の雨を浴びたからだ」と答えたのです。
父のいう「放射能の雨」というのが、現在も尚、裁判が続いている「黒い雨」だったのかどうかはわかりません。しかし、私はそばにいて「放射能の雨ってどんな雨なんだろう」とで思ったことを印象深く覚えています。なぜならそれからしばらくの間、雨粒の落ちてくる天を見上げながら、放射能の大きな雨粒が父の髪の毛を溶かしていく様子を想像していたからです。そのイメージは今もまだ思い浮かべることができます。
もうひとつ思い出されるのは、車の中で父から召集令状の話を聞いた時、私は「それなら父は残留放射能を浴びた被爆者ではないか」と思い、思わず「被爆者手帳はあるのか」と尋ねると「ない」という返事でした。理由を聞くと「当時の被爆者は差別を受けていた。ない方がよかった」と答えました。
後年、井伏鱒二の『黒い雨』の冒頭の一節を読んだ時、思わず父の言葉を思い起こしました。
この数年来、小畠村の閑間重松(しずましげまつ)は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。二重にも三重にも負目を引受けているようなものである。理由は、矢須子の縁が遠いという簡単なような事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務していたという噂を立てられて、広島から四十何里東方の小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云っている。患者であることを重松夫妻が秘し隠していると云っている。だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合せに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切り上げてしまう。
井伏鱒二著『黒い雨』より
父は原爆をすり抜けたように見えて、戦後長い間、原爆症の発症に怯えていたのかもしれません。さらに閑間重松のように「云い知れぬ負担」や「負目」を感じながら生きていたのかもしれません。
それでも父は、伝えられるような原爆症の症状には悩まされることなく、大好きな妻と七十八歳まで元気に暮らしました。人口ピラミッドが凹むほど多くの戦没者を出した大正生まれの人々の中にあっては、長生きをしたと思います。
父が郷里で玉音放送を聞いてから三四半世紀が経ちました。「終戦と知ってどんな風に感じたの」という私の質問に、「そりゃあ、ホッとしたよ」という一言で父の召集令状の話は終わりました。
今日は七十五回目の終戦記念日です。