096.キャバレー王と祖母
6月1日より緊急事態宣言による美術館の臨時休業が解け、ようやく「コレクター福富太郎の眼」展が東京ステーションギャラリーで再開されました。4月24日に開催されたと思った途端、4月27日から5月末日まで一月以上に渡る臨時休館とは誠に残念でなりませんでした。
再開されたと知って、ポスターに惹かれて早速行ってみたところ、そのコレクションの素晴らしさは、言葉を失うほどでした。思わず息を呑み、ため息を漏らし、うっとりと至福の時を過ごしました。
コレクター福富太郎の眼 展示概要
福富太郎(ふくとみ たろう/1931-2018)は、1964年の東京オリンピック景気を背景に、全国に44店舗にものぼるキャバレーを展開して、キャバレー王の異名をとった実業家です。その一方で、父親の影響で少年期に興味をもった美術品蒐集に熱中し、コレクター人生も鮮やかに展開させました。念願だった鏑木清方の作品を手はじめに蒐集をスタートさせますが、著名な作家の作品だけでなく、美術史の流れに沿わない未評価の画家による作品であっても、自らが良質であると信じれば求め、蒐集内容の幅を広げていきます。さらには、それに関連する資料や情報も集めて対象への理解を深め、美術に関する文筆も積極的に行いました。その結果、近代作家を再評価する際や、時代をふりかえる展覧会において欠かせない重要な作品を数多く収蔵することになったのです。これまで各地で開催された日本近代美術の展覧会に、福富コレクションから数多くの作品が貸し出されてきたことは、コレクションの質の高さと、福富太郎の見識の高さを物語っています。福富コレクションといえば美人画が有名ですが、本展は、作品を追い求めた福富太郎の眼に焦点をあて、美人画だけではない、類稀なるコレクションの全体像を提示する初の機会となります。鏑木清方の作品十数点をはじめとする優品ぞろいの美人画はもとより、洋画黎明期から第二次世界大戦に至る時代を映す油彩画まで、魅力的な作品八十余点をご紹介いたします。
「コレクター福富太郎の眼—— 昭和のキャバレー王が愛した絵画」展示概要
東京ステーションギャラリー 展示概要より
詳しくは、上のサイトの他、美術手帖や芸術新潮のサイトにお譲りすることとしますが、福富太郎の審美眼の確かさは多くの専門家が太鼓判を押すところです。
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どの絵も素晴らしく、すべての絵について感想を述べたくなるほどですが、私の心に最も残った絵のひとつに、池田輝方の「幕間」(1915年(大正4年)頃)があります。二曲一双の屏風画で、芝居小屋の幕間の華やいだひとときが描かれています。右隻には江戸時代の奥女中たちが散策する様子が、左隻には大正時代の芝居好きな娘たちが売店で買い物をする様子が描かれています。
左隻の大正時代を描いた絵の中で、中心的な人物として描かれている落ち着いた桜鼠の振袖に身を包み、刺繍のついたハンカチ片手に右手に向かって歩く女性を見た時、私は思わず祖母のことを思い起こしました。
私の祖母は明治30年(1897年)生まれで、この絵が描かれた大正年間(1912-26年)には、十五歳から二十代の青春時代を送っていました。
母によれば、祖母は芝居や人形浄瑠璃文楽が好きでよく足を運んでいたといいます。祖母は孫の私が言うのも何ですが大変美しい人でした。母は祖父似、私も父似のため、祖母の美しさが私の代まで伝わっていないのが残念です。
祖母は、祖父の姉、つまり義理の姉と大層仲が良かったようで、幼い頃の母の記憶ではよく誘い合って芝居や映画へ出かけて行ったのだそうです。古川ロッパが好きだったとも聞きました。その頃は名古屋に住んでいたので、母も一緒に名古屋の市電に乗って繁華街へ出掛けた記憶があるそうです。
私自身は名古屋の地理がよくわからない上、戦前の街並みなどまったく見当もつきませんが、おそらく祖父と結婚する前から家族や友人と連れ立って芝居小屋に出かけていたのだろうと思います。
のちに大阪に引っ越ししてからは、好きな人形浄瑠璃文楽によく出かけていたと母から聞きました。祖母は小柄の上柳腰で、よそ行きの着物を身にまとい、きりりと帯を締め上げると、鏡台を振り向きざまに帯の真ん中を揃えた指でポンと叩き、「それでは後をよろしゅうに」といって出かけていったのだそうです。
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今回の展覧会では、鏑木清方の作品を筆頭に、多くの美人画が一堂に勢ぞろいという様相でしたが、その美しさは今日の基準とは違います。2021年の日本では、西洋人のように目が大きくて鼻が高く、顔が小さく脚が長くということに価値を置く美が求められがちですが、蒐集された絵の多くが描かれた幕末から明治期の美の基準にはそのようなことはなく、古風な日本美人が描かれていました。
今回、多くの美人画を見ながら、このような独特の美の基準を失ってしまうのはもったいないという気持ちになりました。美しい絹の着物を身に纏った姿が日常生活からほぼ消えてしまった現代風俗にも残念な思いが湧き上がってきました。
百年前には世界中で誰もがまとっていた各民族の衣装は、多くの国々で失われ、特別な祭礼の時にしか身につけることがなくなりました。かくいう私も自分ひとりで着物を着ることができません。友人の中には最近になって着付け教室に通い始めた人もいるくらいです。
祖母が口ずさむ音楽はどこか寂しげな日本独特の音階でしたが、私はかろうじて子守唄が唄える程度で、独特の節回しなどは口ずさむことすらできず、もうすっかり私の身体は和の音階を失ってしまいました。
祖母が通った芝居小屋は、きっと畳敷きで座布団があり、今の大相撲のように枡席などで正座をして観劇していたのではないかと思います。私が二十代、三十代くらいまで、列車の座席で「この方が楽だから」と正座をしている御婦人をたまに見かけたものでした。飛行機のシートベルト解除の合図と同時に正座をした方を見たこともあります。私は正座で寛ぐことなど決してできません。
長い髪を結い上げたり櫛削ったりしている絵を見ては、黒髪は女の命と呼ばれていた時代もすっかり変わったと感じました。私も長らくショートカットにしていますし、髪の色を変えていない若い女性を探す方が難しくなりました。行水の絵を見れば、お風呂や洗髪の習慣もすっかり変わったと思いました。
この百年間で、多くの独自文化を失ってきたのだと改めて考えさせられました。
私の世代は、多くの明治・大正時代の生活習慣や伝統を失ったと思いながら生きていますが、次世代では失ったことすら気づかずに生きていくことになるのだろうと思いました。私たちの世代が、江戸時代のお歯黒や引眉の習慣を失ったことには、もうまったく気づいていないのと同じようにです。
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祖母は芝居や人形浄瑠璃文楽が好きだったということでしたが、今回の展覧会には多くの近松門左衛門の心中物語や駆け落ち事件を題材にした作品が出品されていました。いつの世も人の営みや男女間の問題は登場人物の名前が変わるだけで、シェイクスピアも近松も令和の時代も同じなのかもしれません。
けれども祖母が笑い涙した場面は、私が笑い涙する場面と同じなのでしょうか。笑いや感動の基準も気づかぬうちに変化しているのではないでしょうか。
今回の出品作品には美人画も多く、大勢の芸妓や娼妓が描かれていました。親に売られて薄幸の人生を歩んだ女性もさぞ多かったことでしょう。この時代、女性に参政権などありませんでした。もっとも大正14年(1925年)5月にいわゆる普通選挙法が成立するまで一般男性にも参政権はありませんでした。
考えてみれば、日本における男女の参政権獲得までの年数の差はわずか二十年余りのことに過ぎないのでした。日本初の女性議員39名が誕生したのは、昭和21年(1946年)4月10日の衆議院議員選挙においてでした。
世の中が進歩していくということはどんどん世界の価値観が標準化していくことなのか、民族の伝統文化をなくさなければ世界標準の価値観を手に入れることができないのか、それとも民族の伝統文化の継承と民主主義や三権分立などの価値観の標準化は別問題なのか。このような問い自体が無意味なのか。美しい女性の絵画を見ながらとりとめもないことを考えました。
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本展覧会に於いて、自分自身不思議に思うほどだったのは、絵に描かれる女性に感情移入されてしまうというか、その人の人生についつい思いを馳せてしまうことでした。その理由は何かと問えば、それは描かれた女性たちが圧倒的に魅力的だったからです。
福富太郎は、鏑木清方の絵を蒐集するきっかけを次のように述べています。
思い出すことあれこれ
私の家はまがりなりにも一階と二階には床の間が付いていた。一階の床の間は鯉の掛けものが飾りっぱなしであったが、二階の床の間だけは清方先生の美人画が季節の変わり目の度に掛け替えられていた。
オヤジから常日頃「近付いてはいけない」「さわってはいけない」と言われていたので、子供心ながら「きっと高いものなのだろう」と思っていた。又、横目でちょいちょい見ては「きれいな女の人だ」と思ったりもしていた。家の近くには軍事工場があり空襲の対象地域であったので、オヤジが亡くなると防空壕に大事にしまっておいた。只、湿気でカビなどが生えないようにと時々出しては風を当てたりしていた。
昭和二十年五月二十四日の大空襲の際、前日に防空壕から出して家に置いておいたところ、空襲に遭ってしまい、防空壕にしまうことも出来ず、家とともに焼失してしまった。家族ともども身一つで逃げだすだけで精一杯だった。逃げる前に防空壕に入れて置くことに気が回らず、オヤジに申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
戦争が終わり世の中が少し落ち着いてくると、清方先生の絵を灰にしてしまったことに改めて自責の念に駆られた。只、その当時は職も定まらず、その日その日を食べていくだけで精一杯で、絵どころではなかった。また買いたくても金もなかった。只、今に金を貯めて同じくらいのものを買おうとは思っていた。
貧乏人が絵を集めるために金を貯めようとすると何かを犠牲にしなければならない。まず酒とタバコはやらない。道楽も出来ない。ゴルフ、マージャン、パチンコなどのギャンブルは勿論、旅行もしない。好きな物も食べない。コーヒーも飲まない。タクシーには絶対に乗らずに電車専門。洋服は実用的なものだけを着る。靴は黒いのが一足だけ。というふうに決心した。
『美人画の系譜 ——鏑木清方と東西の名作百選 福富太郎コレクション』(2009)監修内田武夫・島田康寛 青幻舎 p.142より
福富太郎は「健全娯楽」を信条に「銀座ハリウッド」を始め数多くのキャバレーを展開し、「キャバレー太郎」と異名を取り、昭和40年(1965年)から昭和53年(1978年)まで納税額一位を占め続けたのだそうです(福富太郎著『昭和キャバレー秘史』(1994)河出書房新社 p.173より)。
そのキャバレーについてですが、彼は次のように述べています。
大体、現在はキャバレー自体もまともに理解されておらず、キャバレーとは何ぞやということを知っている人は、ジャーナリストにもほとんどいない。週刊誌を開いても「ピンクキャバレー」とか「おさわりバー」とか「桃色サロン」などと書いてあるけれども、本人がわかっていて書いているわけではない。それこそミソもクソも一緒にしているのである。
キャバレーというのは、警視庁の風俗営業取締法にあるように、正式にはお客とホステスが踊れる踊り場がなくてはいけない。だから、小さい店ではキャバレーの許可はおりない。十組が正式なダンスをぶつかり合わずに踊れるためには、踊り場はかなり広くなければならず、少なくとも二十〜三十坪は必要になる。また、ダンスをするためにバンドも入れるので、バンドステージも作らなければんらない、さらにショーもできるという社交場がキャバレーと言われるのである。
福富太郎著『昭和キャバレー秘史』(1994)河出書房新社 p.12より
私自身はキャバレーといえば、パリでムーランルージュやリドに行ったことがありますが、日本では一度も行ったことはありませんでした。私も日本のキャバレーについて「まともに理解」していなかったと思いました。
福富太郎は、平成30年(2018年)5月に老衰で亡くなりました。享年86。7月の北千住ハリウッドでのキャバレー葬を経て、12月30日、同店と赤羽店が「ハリウッド」最後の看板をおろしたのだそうです(「芸術新潮」2021年5月号 p.20 より)
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キャバレー王のコレクションのひとつ池田輝方「幕間」を眺めながら、思わず祖母の人生に思いを馳せてしまいましたが、祖母は金銭的な苦労はしませんでしたが、祖父がたとえ黒いものでも白と言えば白、という家風の中で厳格な祖父にひたすら仕える人生を送りました。祖父の前で、祖母が三つ指をついている姿が思い浮かびます。
祖母は、祖父が何を言おうとも、決して祖父に口答えしませんでしたが、幼い私にも祖父はまるで祖母の掌の上に乗っているようだと感じられました。
祖母は祖父の生涯を見届けるところまでが自分の役目だと思っていたようで、祖父が亡くなった時に、大きく安堵して「これでもういつお迎えが来てもいい」と言い、数年後に亡くなりました。
「今の時代なら祖母はどんな人生を生きたかったのだろう」と、私は何度も繰り返し考えてきましたが、生まれ落ちた時代は所与のものとして生きていかざるをえないのではないかと、祖母の人生がうまく想像できない負け惜しみ代わりによく思ったものです。
この展覧会には戦争画や風俗画など様々なジャンルの作品が出展されており、大変見応えがあります。けれどもなんといっても質量ともに女性の内側から滲み出る魅力に圧倒されます。「健康でピチピチしてはいても、薄っぺらで存在感のない若い娘に、女を感じろという方が無理だ」というコレクター福富太郎は、次のような眼差しを女性に贈るのでした。
金のために身を売る女でも、毒婦というのか多情でふしだらな女でも私はいっこうに構わない。スッピンのやつれた面差しで、時おり咳こんだりする女なら、なお堪らない。恋愛対象というのではないけれど、そういう女性にこそ、無性に心ひかれるのだ。(図録 p.112 より)
本展覧会は、6月27日(日)まで東京で開催後、新潟('21/9/18ー'21/11/7)、大阪('21/11/20ー'22/1/16)、高知('22/1/29ー'22/3/21)、富山('22/7/15ー'22/9/4)、岩手('22/9/17ー'22/11/6)でも開催される予定です。
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