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徒然日記(2022/10/14)

何でもないようなことを、何でもないように書く。
そんな徒然日記、2日目。

気づいてるかな。僕が繋いでることを

かなり我がもの顔でドヤる人が居て、ドヤり続けてオラオラし続けてきた結果、厄介者のポジションを確固たるものにしてチームの中でほぼ居場所がなくなってしまっている。

その人の言い分は、必ずしも全部間違えている、という訳ではないと思っているのだが、残念ながら悲劇的なまでに人望が無い。外面はどちらかと言えば良いのだが、付き合いの時間が経過するほど身内の人望を失っていく様が痛々しい。

「人望」って何だ、と思ってググってみたら、こんな記事が出てきた。

そして上記の記事の中には、こんな一節がある。

【人望がないと言われる5つの原因】
1.自分勝手に行動してしまう
2.人の話を真剣に聞かない
3.約束を守らない
4.気分屋で人によって態度を変える
5.相手の立場に立って考えられない

https://domani.shogakukan.co.jp/635682

上記を念頭に、私の身近な人望が無い人を私なりに評価してみると、「相手の立場に立って考えられない」から「人の話を真剣に聞かない」し「自分勝手に行動してしまう」し、自分にとっての利用価値でしか他者を見てないから「人によって態度を変える」。私にはそう見える。

私がその人を見て想像するに、おそらく過去に、いわゆる「トラウマ」的なネガティブな傷跡を心に刻む辛酸を舐めたんだと思う。彼が意固地に厄介者に陥っていく様は、どこか自覚的でもあり、逆ギレ的な面もあるように思えてならない。

彼の目には、「自分自身はほぼ完全無欠に正しいが、チームの他のメンバーはことごとく間違っていて、他のメンバーが是正してチームを維持するか、もしくはこのチームを壊すか離れるかするのみだ」と見えているのだろう。彼にはもはや、チームメンバーへの信頼ではなく猜疑心が蔓延っている。それを彼が先手打って醸し出したことで、逆に他のメンバーから彼への猜疑心を誘発したように思う。結果的に今や、彼と他のメンバーの間では、本音で語ることのできない腹の探り合い関係になってしまっている。

そんな中で、私は、というと、かろうじて彼とも他メンバーとも真摯な交信を保っていると思っている。無論、斯く言う私も、彼を「厄介者」と思ってはいるのだが、さりとてシャッターを下ろして仮面付けっぱなしでしか相対できない状況にはなっていない。彼は「下手くそな策士」なので、言動をそのままストレートに字義通り受け取る気も無いが、一方で性根腐ってて全く取り合えないとも思っていない。

今の状況を第三者的に見ようとした場合、私には、どうやら唯一私が、厄介者の彼とチームを繋いでいるポジションに立っているように思う。そう思う私は、その立ち位置が、非常に重要で責任重大なものだと勝手に自負している。彼は厄介者ではあるが、他の誰にも真似できない優れた点も有って、なんとか折り合って一緒にやっていける構図はキープしたいと個人的に願っているからだ。それにやり方は別として、彼の主張の中には賛同できる部分や傾聴すべき部分も少なくない。厄介だからと言って、彼の機能を完全代替できる者が未だ居ない状況で、バッサリと切り離すというのは得策でないと思っているのだ。

各々が謙虚でいて、意見が完全一致しないメンバーの納得できない主張や思いも尊重はしつつ、気持ちよく望ましい方向で歩調を合わせていけるように態度一致できれば良いと思ってはいるのだが。それがなかなか簡単ではないのだ。目の前の納得できない主張を徹底破壊しようとしたり、正論と分かっていても付いていけない保守的な態度や思いに人格否定で対応したりしてしまう。これは私もそういう面がまだまだあると思う。しかしそれをなんとか克服しないと、集団は簡単に瓦解・霧散してしまう。

不協和音が出ない集団なんか無いんだ。そう言い聞かせて、決定的に壊れないよう不完全でもなんとか前進できるように気長に頑張ろうと思う。

自分を弱いと認めないと弱者の戦法はできない

「弱者の戦法」という概念があって、これはおそらく、孫子の兵法から来ているのではないかと思う。弱者はまず戦わず逃げることを考えろ、それが許されぬなら、相手がバラバラで自分は一点集中の状況で戦え、という教えだと私は思っている。

ニッチトップ戦略なんかは、まさにこの弱者の戦法の派生な気がしてならない。最初からデカいメインステージで勝者を目指そうとすると、資本力の大きい大手などとガチンコになって体力負けするから、大手が目もくれないマニアックな隙間ゾーンに集中的に特化してそこでトップになろうというものだ。

で、だ。「弱者の戦法」いうのは、自分が強者ではなく弱者なんだ、と悟ったところからしか取れないというのが肝の気がするのだ。自分が強者だと思っている時、敢えて狭い隅っこに特化して戦う気になるだろうか。あっちでもこっちでも勝とうとするに違いない。あちこちで戦って勝てるほど、自分は大きくも強くも無いのだ、とまず諦めなければ、弱者の戦法で戦うという腹にはならないだろう。

ひるがえって、自分の周りの状況を見た時、「俺たちは弱者だから弱者の戦法を研究して一点突破主義でやろうぜ」と思うのだが、周囲の人となかなか思いは一致しない。どうしてだろう、と考えると、彼らは自分達のポジションが弱者であるとは思っていないようなのだ。強者とも思ってなさそうだが、要するに他を知らなすぎて、強いとか弱いとかの相対的地位に思いが及ばないというか。「昔に比べてどうも最近は勢いが出せないが、どうしてだろうねぇ」てな具合なのだ。

その状況から、弱者の戦法で戦い抜くところに持ち込むためには、まず他所を知って自分の相対的立ち位置を知ることが最初なんだろう。それで他には猛者がたくさんいて自分らは弱者ポジションなんだ、と理解できたら、じゃあどういうフィールド選択して、どこに資源の集中投下を行い、自分らの見え方をどう演出し(ブランディング)、その戦いを力強く続けるためにどんな風土文化を醸成すべきか、という具合に進んでいくんじゃないだろうか。

そう思えば、自ら他所を見にいく努力が広がらない場合は、やむなく自分の弱さ具合を痛感するまで一回徹底的に負け切らないと始まらないのかもしれない。

痛い目にあったら、痛みを噛みしめるに限る

自分が弱者だと悟るところから、弱者の戦法は始まると理解すると、同じ要領で、「痛い目にあったら、その痛みを徹底的に噛みしめるに限る」のだろうなと思う。何か間違いやミスがあって、不具合が起きて痛い思いをするとき。速やかにダメージ小さくリカバれるのは良いことでもあるが、改善の必要性を痛感せずに、よりよく変わるチャンスを掴めずに通過してしまう危険も伴う気がする。

そうは言ってもダメージコントロールは絶対に必要ではあるが、「あー、これは痛い目にあってるぞ」という状況では、もうその痛みを骨の髄まで染み込むように浸るのも大切かもしれない。「こんな痛い思い、もう二度としたくない」という思いは、自分の習慣や癖を徹底的に改善する原動力になる。

・・いや、それでも痛い思いはなるだけしたくないのだが、避けられない痛い思いが出てきた時は、逃げずに受け切ることも心掛けたいなとも思う。

巧遅は拙速に如かず

物事を行うとき、「完璧だけど、遅い」と「不完全だけど、速い」のどっちが良いか。完璧主義 vs スピード主義とも言い換えられるだろう。これは昔から長く議論になるところだが、「巧遅は拙速に如かず」という言葉があるくらいだから、一応人類の結論は、「不完全だけど速い」のスピード主義の方が良いことになっている。

皆さんはどう思うだろうか。意外と現代社会では、「時間は掛かってもいいから完璧なものにしろ」という圧が掛かっているように思えてならない。PDCAとか言って計画書を書くのにやたら時間と心血を注いでなかなか行動・実装が始まらない、なんてことも多いのではないだろうか。

そんな完璧主義・巧遅主義の蔓延にアンチテーゼとして、「アジャイル」なんてやり方がフィーチャーされてきた。どっちみち「完璧な分析」「完璧な予測」「完璧な計画」なんて作れっこないんだから、会議室の中での分析・予測・計画をぐずぐずネチネチといつまでもやっていないでほどほどにして、「書を捨てて野に出よう」ということだろう。いつまでも足りない頭で考えてないで、とっととα版・β版出して現場で評価→改善ループを回せや、ということなのだと思う。

巧遅より拙速が優れているのは、実際に世界に姿を現して現場で鍛えられるのが、拙速の方が圧倒的に開始が早く、だからこそ鍛錬の時間・回数が増えるからだ。それが、現実世界が「VUCA」などと呼ばれる予測困難で変化度が高い状況になって顕著になった、ということだろう。

そんな中で一つ心がけたいのは、「鍛えられ上手」になっておくことだ。打たれてもへこたれないレジリエンス。現実世界からの微妙なレスポンスを見逃さずに分析できる観察力・考察力。意固地にならずに現実世界からのメッセージに応じて柔軟かつ貪欲に改善ができる柔軟性と改善力。こういうのが備わってないと、拙速が「ただの知恵が足りない無駄打ち」になってしまう。

結局、人望の無い厄介者もそうだが、レジリエンスが結構鍵を握っている気がする。現実から厳しいフィードバックが返ってきても、いちいちへこたれない。他者から望まないレスポンスが返ってきても、いちいち気にしたり腹立てたりしない。そういう落ち着きというか「打たれ強さ」こそ、現代において幸福に過ごせる大事な要素な気がしてならない。


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