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いつかのテーブルの上にロウソクが置かれるお洒落な夜カフェで。「私は面倒くさい人間だ」の答え合わせしませんか?

わたしのだいすきな人のだいすきなエッセイ。
先月末に更新されたものです。このエッセイを読んで、私が考えたことや感じたことが沢山ありすぎて、noteに残しておきたいなと思いました。

記事を貼っておくので、良かったらみなさん、私のだいすきなくぅちゃんのエッセイを読んでから、私のnoteを読んでくれたら嬉しいです。



ここからは、私の心の記録です。




私が好きなのは、まず書き出し。

「嫌いな人の好きなものを嫌いになってしまう」この感覚はきっと、みんながみんなそうではないけれど私はすごく共感した。

嫌いな人の好きなもの。
私にとって「嫌いな人」とは、自分の譲れない何かに反していたり、絶対に交わらない何かを感じたり、何かが違っていて、できるだけ遠ざけたい存在。
その人の好きなものを、私自身の日常におくことって、それも私の心に反しているような気がするし、物に罪はないのも分かっている。けれど、少し視野が人よりも広く、敏感に働きすぎてしまう感覚、日常の些細なことに、人よりも発達しすぎたこの想像力を使ってしまう一部の少し繊細で生きづらいと言われるかもしれない人間は、嫌いな人の好きなもの、それを見るだけで、思い出が鮮明に蘇り、レモンのような酸っぱくて少し苦くて顔をしかめてしまう。そんな心になり、遠ざけたくなるものだ。


このくぅちゃんのエッセイを読んで、私はくぅちゃんと「面倒くさい人間」の答え合わせをしてみたくなった。くぅちゃんのエッセイを読み始めて、ずっと感じていた「似ているな」と思う部分。
きっと、人間関係で求めていることや、人との関わりでちょっとした違和感を感じるところ。その根っこの部分が似ているのだと思う。

だからきっと、自分を遠回しに肯定してくれる。そんな人に惹かれるのだ。大前提に、人を傷つけたり、距離感を間違えたり、少なくともこちらが「え、?」と思うようなそんな行動や言動をしない。それが「面倒な自分」にとって、ずっと友人でいたいと思える、条件みたいなものなのだろう。

この人といると、ずっと笑ってるなとか、幸せを感じられたり、自分が満たされる感覚。遠回しに自分のことを肯定してくれる、そんな風に感じられることが、満たされることに繋がっているのだと思う。


自分の機嫌は自分でとる。今はきっとそう言う時代。他人は他人。いろんな人がいて当たり前で、それを受け入れることが必要な時代。

でも、それができていたら、きっと私はここまで面倒な人間ではなかっただろう。もちろん、自分で自分の時間を楽しむこともできる時もある。
けれど、自己肯定感が低すぎるあまり、そして考えすぎる性格が本当の自分の考えに導いてくれることもあるが、考えすぎるからこそ、迷って悩んで分からなくなって逃げ出したくなってしまう。それが私の弱さだ。何かに縋りたくなってしまったとき、私はいつも独りなんだと自覚する。
誰かに自分を曝け出すことができたり、離れていても心は繋がっていられるようなそんな心強い感覚にいつまでも憧れを持っている。でも、これ以上面倒だとできる限り思われたくないという変なプライドが、余計に自分を面倒くさいモードにさせてしまう。誰かにこの自分の面倒くささを見せてしまった時、申し訳なさに襲われて、スマホを閉じ、とりあえず何も見たくないモードに走るのだ。その人から反応が返ってきたら、泣くほど嬉しくてとても救われるけど、その反面、期待することは怖くて、でも期待してしまって、その度に反応がないことを想像して怖くてたまらなくなる。逃げ出したくなる。そうやって無理やり眠剤を飲み逃げるように眠った夜が数えきれないぐらいある。





私はわたしの領域にズカズカと入ってくる人が苦手だ。そして深く考えずに簡単に距離感を間違えてしまえる人が苦手だ。

自分のペースを乱されることも好きではない。少し強引な人や自分のことばかりで行動している人を見ると「痛いな」と思う。いい大人が、何をしてるんだろうと思うし、自分のことしか考えてないんだろうなと気づいてしまう。でもそれを言われたところで私は何も断れない。誰かの自分だけの欲の行動で私自身が「損しているな」と感じることがよくある。その度に少し悲しくなるし、自分のことしか考えられず、それを行動に移してしまえるあたりが、図々しく、なんでこの人が得をしているんだろうと毎回不思議で、自分がすごく「馬鹿みたいだな」と感じる。


私が私を面倒だなと思う瞬間。
人に話すのは怖いくせに、分かってもらいたい、肯定してもらいたい。いつだって欲しい言葉がある私はその時にその言葉をくれる人をきっと好きになってしまうのかなと思う。そんな人に出会えたことはないのだけど、自分のことを何よりも優先して大事にしてくれる。そんな人はどこかにいるのだろうか。恋人を求めているわけではない。私が欲しいのは、私が私でいられるようなそんな友人だ。

くぅちゃんのエッセイを読んでいて、人に伝わらないもどかしさや、怒りのようなもの、自分が悪者にされているような感覚を思い出した。
私が24年間生きてきて、伝わらない苦しさ、理解されない孤独、伝えても伝えても分かってもらえず、仕舞いには誤解され、悪者にされるという最悪な結末。これを数えきれないぐらい経験してきた。その度に、暴れまわりたくなる衝動に駆られ、家族に八つ当たりをしたり、泣き叫んだり、物を壊してしまいたくなったり、そんなどうしようもない感情になってきた。小学生だったくぅちゃんも、きっと、苦しかっただろうな、でもくぅちゃんにはヒーローがいて本当によかった。小学生だった頃のくぅちゃんに想いを馳せた。大丈夫だよって、分かってくれる人はいるよって頭を撫でてあげたい、そんな気持ちなった。伝わらず涙を流した、この気持ちが痛いほどわかるから。





2ページ目、目が止まった文章があった。

「相手が自分のエゴや保身のために話をしていたり、はたまた有利になるように嘘をついているのを見ると、二度と自力では上げられないシャッターが降りる音が聞こえる」

この文章を読んだ時、共感と同時に、どきっとさせられた。自分はどうなんだろう。私もおんなじ風に感じ、気付き、そう思う。だけれど、何故か自分は大丈夫なのか不安になった。そして、シャッターが降りる音がする度に感じるのだ。「私の心がもっと広ければ」と。人と関わりたい癖に、私の心のシャッターは最も簡単に降りてしまう。自分で自分の世界を狭くしているのだと、自分を責めることもある、けれどそれでしか守れない自分の心があるのだ。今でも私は自分の心を守る方法を、人から離れること、自分の心のシャッターを下ろすこと、それしか方法を知らない。

一度、行動、言動に違和感を覚えると、その人とその後関わるときも、疑念は晴れず、なにか言われるのではないか、何されるのではないか、そうでなくとも、やっぱりなと感じることがあるのではないかと、心がびくびくしている。

私はいつだって自分のことで精一杯で、誰かに幻滅したいわけではない。できることなら、傷つきたくもないけど、傷ついてほしくもないし、人間関係において他人に「あぁ、、」と諦めの感情を抱きたくない。他人に諦めの感情を抱く度に、心のシャッターを下ろしてしまうたびに、自分も苦しくなる。胸の奥が締め付けられるような、誰とも関われないと言われているような感覚にもなる。

エッセイにもあった、「無理をしない人間関係」を考えるたびに、やはり私も気難しい人間になっているのだろうな。でも、私はいつでもくぅちゃんの言葉を思い出す。くぅちゃんが以前エッセイにも書いていたこと。考えすぎたり、悩んだり、いまは死ぬほど苦しくても、その気持ちをどこかに残しておくことで、いつか書くエッセイのネタになったりする。メモを持ち歩き、メモがないときはnoteの下書きに書いたりして、いつか、これで何かが生まれるのかもしれない。そんなことをくぅちゃんも思っていて、私もそう信じられるから、だから書くことをやめないでいきたい。

今書いていることはいつかきっと何かに繋がる。書くことで気持ちが軽くなる今。そして、 その時の自分を未来では笑って肯定できているかもしれないのだ。そんな風に思えて、それを書けるくぅちゃん、そして読んだ私にもそう思わせてくれるくぅちゃんはやっぱり私にとって憧れの「書く人」なのだ。

一昨日、その私にとっての憧れの書く人に手紙を送った。便箋が分厚くなるほど、エッセイの感想を書いた。でも、感想を届けようとする度に思う。「読むの、怖くないかな」と。

私は、LINEやDMを開くのがいつも怖い。怖くてつい後回しにしてしまう。noteでコメントをくれる方、いつもあたたかくて本当に有難いなと読む度に思うのだけど、通知が来て開くまでが時間がかかるのだ。とくに、こんなに自分のことを曝け出しているこのnoteは、恥ずかしさよりも、どう思われたのかの怖さの方が強くて、でも読んでもらえて反応をもらえることはすごくすごく嬉しくて、でもやっぱりその感想を読むのって少しいや、だいぶ勇気がいることなのだ。

もしかしたらくぅちゃんもそう言う時があるのではないかな、と最近考えたりする。人にいいと言われるものを書くためには、綺麗事ばかりでは心に響かない。いつも心を曝け出してくれるくぅちゃんのエッセイは毎回わたしの心を打つ。そんなエッセイを書いているくぅちゃんはやっぱり、人に誤解なく伝わるかの不安や、自分を見せることの怖さと戦っているのではと思い、だからいつも読まれなくても、大丈夫だよって、書いてくれてありがとうって気持ちを伝えたくて手紙やDMを送っているのです。

どちらにせよ、届いても届かなくても、私はくぅちゃんの言葉に生かされてます。凄く凄く救われる時間なのです。

今の私は、自分の気持ちを吐き出したり、整理したり、そういう書き方しか出来ないけれど、いつか私も誰かを救えるようなものが書けるようになりたい。

noteはわたしの唯一の居場所です。


最後に、エッセイ中にある、可愛いくぅちゃんの写真で終わろうとおもいます。

読んでくださった方、ありがとうございました。




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