まだ、大丈夫。
心のままに書こうとすると、ネガティブなものばかりになっていることに気がついた。読み手にもネガティブな印象を与えているのかと思うと怖くなるし申し訳なくなる。最近の自分と本来の自分は違うのだ、そう思いたい。本来の自分はそこまでネガティブではない。ただ物事を深く考えたり、好きな人やこれから出会うかもしれない誰か、そして、映画の登場人物などに思いを馳せること、自分の世界に入り込むことが好きなだけなのだ。誰かと居てもいつの間にか1人になっている。だから好きなことを考えては気を紛らわす。複数人いる中の1人になると周りが見えすぎて分かりたくないことも分かってしまう。分かりたくないことが分かってしまって傷ついた場合、きっと私は顔にでてしまっているだろう。即座に距離を取るような発言や行動をしてしまう。だから、ネガティブな印象を持たれたり、周りからよく思われないのだ。本当の自分を誤解されそうで怖いのだ。
というか、大抵はそう誤解されているので、それが他人から見た自分なのだと思う。だからこそ、「本当は違うのに」という感情が生まれたり、「誰からも理解されない」と常日頃思いながら生活しているのだと思う。周りから見た自分が本当の自分なのだろうか、とよく考えては、本当がわからなくなってしまう。だが、自分自身、感じたことからのその行動になっている訳で、周りから見た自分も偽りではないのだ。けれど、それだけで判断されてしまうことが多くて傷つくことが多くある。人間関係のほとんどがそうだ。
私は、やっぱり誰かを信じようとすると傷つくのだ。何回も同じことを繰り返している。人間不信の癖に優しい言葉を掛けられると、その人のことだけは信じたくなる、信じてしまう。この人は理解してくれるかもしれないと希望を抱いてしまう。でもその人と時間を共にすると感じる違和感。きっとまた何か言われている。それが複数人の場合、やはり私は孤立するのだ。複数人での行動は少し引いて観察してしまう。
3人でいる時は、2人が前を歩き、その後ろをいつも私がついて行く。そんなことはいつものことだった。2人が楽しそうに話をし、私はいつも通り自分の世界に入るのだ。自分がそうしたいわけではなく、そうなってしまうのだ。だから私はいつだって浮いているし、その場に馴染めないでいる。
馴染めないというと「会話に入ればいいじゃん」と言われそうだ。が、わざわざ会話に入ろうとする行動は心が疲れてしまうのだ。きっと一度会話に入ったところで同じことの繰り返しなのだから。そういう諦めの気持ちが大きい。だから無駄な行動はしないのだ。そもそも、その会話が自分は興味がなかったとしたら合わせるのも苦痛だ。自然に2人と1人になるならそれでいい。自然にそうなるという事は、そういうことなのだから。1人だって楽しめるからという意地もあるだろう。
ここまで書いてみるともう、誰かと共に行動することは諦めた方がいいのかもしれない。自分も一度違和感を感じてしまうと苦痛で仕方がないし、相手にもきっと気を使わせてしまっている。そう感じた出来事がつい最近もあった。きっと、私が居ない方が楽しいだろうなと感じてしまった。家に帰った瞬間に自分がいけないんだと責めてしまった。1人に戻った瞬間、何もかも辞めたくなってしまったのだ。そしてまた、ドアスラムを繰り返す自分にも嫌になる。LINEもDMも数人だけを残して、それ以外のトークは全部消した。通知もオフにした。しばらく何も見たくない、ただ1人で耐える時間が始まった。
私の心はずっとグレーゾーンだ。
自分でも自分が怖いと思うほどに、生きることにネガティブになる瞬間が訪れる。何度も、休むことを選ぼうとした。けれど、人に呆れられたり、責められたり、否定されるのも、また色々言われるのも、疑うのももう嫌だった。そういうものに今は耐えられる気がしないのだ。休んでしまったら、それこそ心も身体も終わってしまう気がしてならない。だから、普通の人間を装って今日も仕事をしているのだ。我慢強いわけでもなんでもない。弱すぎて、人からこれ以上幻滅される事が怖い。自ら存在意義をも否定してしまいそうだ。だからずっと心も身体もギリギリなのだ。ギリギリを保てているだけ全然いいのだと思っている。
でも、不思議と仕事中は笑顔でいられるし、体は動く。利用者さんと話すと気がまぎれるし元気を貰えたりする。もちろん嫌なこともあるけれど、利用者さんに「あなたが必要だ」なんて言われたら嬉しいしやり甲斐に繋がる。1日の中で1番笑顔でいられて安らぐ時間はきっと利用者さんとお話ししている時なんだと最近気づいた。私にはやっぱりこの仕事が向いているのかもしれない。私はいつか書く仕事がしたい。けれど、介護の仕事も続けていきたいかも、しれないな。
抑うつと診断されてから少しが経った。生活は今までと変わらない。私は仕事に行けているだけまだ軽い方なのだ。大好きな推しにも元気をもらっている。ここ数週間ぐらいで変わったのは、LINEやDMが見れなくなったことだ。抑うつと関係があるのかは分からないが、誰かから連絡がくると怖くなる。何が書いてあるんだろうと不安になり開けない。長文だと尚更。だから、連絡をとっていた何人かとは自らスタンプやらなにやらで話を終わらせた。最低だな、と自分でも思う。相手が気にしていたら尚更申し訳ない。自分はどうしてこんなにも人から嫌われるような、誤解を招くような行動しかできないのだろう。めんどくさいのだろう。それを考え始めるともう闇に落ちてしまう。
こうやって自分から孤立する状況を作っておいて、人から理解されたい、分かり合える友人がほしいと思うのは我儘すぎると自分でも思う。人と関わりたくないわけではない。本当は関わりたいのだ。けど、上手くできないのだ。傷つきたくないし傷つけたくない
自分のことが自分でもよく分からなくなる。ふわふわしていて存在しているのかも曖昧だ。
少し、自分を忘れて、何かに夢中になった方がいいのかもしれない、とふと思った。本を読み漁ってみたり、映画の世界に溺れたり。自分というめんどくさい存在のことも、周りのことも部屋の隅っこかなんかに置いてけぼりにして違う世界にいけばいいのかもしれない。
落ち着いたら、ノートに理想ばかりを書いてみるのもいい。
そういえば、行きたい展示が来月頭までだったことを思い出した。私は、まだ行きたいところや見たいものがあるのだ。そのことにとても安心した。
昨日は綺麗な三日月だった。
今日はとても晴れている。
夜勤明け。おばあちゃんちでスイカにかじりつく瞬間が幸せだと思えるのだから、
まだ、大丈夫。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?