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今。葛藤


鬱になってから、よく昔のことを思い出し、過去の自分を客観視しすることが増えた。
思い出すたびに、客観視する度に、あの時の自分はあれが精一杯で、必死にもがいて生きていた。後で振り返ることで、あの時我慢しすぎていた自分や、あの時こう言う選択もあったなと気付けることがある。我慢しすぎて、限界も見て見ぬ振りをして、自分の心を壊した結果が今のわたしだ。
わたしの24年間の人生において、ゆったりとした穏やかな時間というものはなかったように感じる。怪我や病気も多くしてきた。家族にも沢山の迷惑をかけた。まだ小さかった保育園に通っていた時、もう既に生きづらさを感じていた自分を思い出す。人の顔色を伺っては、求められていることをわかってはいながらも逆らったり、見て見ぬ振りをしていた。他人の思うようになりたくなかった。あの頃から人を信じてはいなかったし、反抗心のようなものが芽生えていた。


わたしは24年間生きてきて、ずっと自分を好きになれないままだった。ずっと自分のことを認めてあげることができず、分からず苦しんだ。けれど、可哀想な自分を演じたい訳でもないし、私の全部をわかって欲しい訳じゃない。けれど、なにかひとつでも違っていれば、と思うことが最近よくある。

私の今ある、頑張りたい気持ち、変わりたい気持ち、でも変わりたくないところも沢山あること。どれも本当で、でも本当だと思ってもらえない今。私は誰よりも頑張りたいのに、やりたいこともあるのに、頑張れないのが苦しくてすごくすごく悔しくて。ベッドから動けず、日常生活動作すらままならない日も沢山ある。今週なんてほとんど休んでしまった。頑張れないが故に、本当の気持ちさえも分かってもらえてない。本気だと思ってもらえない。そう感じるから余計に日々息苦しさが増していく。

こうやって書いている今も、悲劇のヒロインになっているようだ。可哀想な自分になってしまっている。そんな自分が何よりも嫌で、周りにもそう思われていそうなこともすごく嫌で、自分で自分の首を絞めたいぐらい、苦しくて吐きそうになる。

私はこんなんじゃないって声にならない声で泣き叫んでも誰にも聞こえてはいない。誰も何も知らないままだ。でも知らなくていい。きっと知られてしまったら、その人のことも巻き込んでしまいそうだ。そう考えると恐ろしい。
夜になると心も視界も何かに覆われていく。何も見えなくなる。真っ暗な中、何に苦しんでるのかもよく分からないのに、涙が止まらなくなる。まともに息ができず、それなのに涙ばかり溢れてくるから吐きそうになる。違う世界にいってしまうみたいに、自分が自分ではなくなる感覚が毎晩訪れる。

そんな夜ばかりだから、夜はスマホをおやすみモードにして見ないようにしている。だが、ある晩、どうしてもひとりが耐えられなかった。苦しくて誰かに頼りたかった。そんな時浮かんだ大好きな人。迷惑だと思いながらも素直な気持ちをDMした。言葉にしながらも涙が止まらなかった。心を落ち着けるために、あったかいお茶を飲んだ。少し落ち着いて、こんな個人的なこと送っては駄目だと思い返し、送信取り消しをしようとスマホを開いた。そしたら、もう既に既読になっており、いいねをしてくれていたのだ。見た瞬間、涙で溢れた。なんでこんなネガティブなものにいいねをしてくれたんだろうという気持ちと同時にやっぱりくぅちゃんは優しくてあったかくて、私のことを救ってくれる唯一の人だ、くぅちゃんの優しさに涙が止まらなくなった。私はやっぱりくぅちゃんが大好きで、ありがたい存在で、いつも闇から救い出してくれるのはくぅちゃんだ。

あの夜、やっぱり明日も生きてみようって思えたのは、くぅちゃんのいいねがあったからだ。今、これを書いていても、くぅちゃんの存在に救われている。明日の休日はくぅちゃんに手紙を書こう。きっと手紙を書きながらも救われるのはわたしなのだろう。


今の私には何が必要なのだろう。
目標のために頑張りたい、その私の気持ちは「休んだほうがいい」と言う声にかき消されてしまいそうだ。休んだらきっと元には戻れない。心が灰になっていくあの感覚はもう2度と経験したくない。一度鬱になったことがあるからこそ、今を必死に保とうとしている。その自分を否定しないでほしいのだ。

しあわせになりたい。今より楽しく暮らしたい。今、なにをしたらいいのか、自分は何がしたいのか考えてはまだ答えが出ない。頑張りたい、前向きになりたい、鬱を克服したいと思えば思うほどに自己理解力が足りないと思い知らされる。理想と憧れと今の自分のギャップや、今の自分がどの程度やれるのかが自分でも分からない。すごく不安なのだ。

そして最近考えることがある。
私の思っていた大切なもの、失いたくないものは、本当にそうなのだろうか。本当は大切だと自分が思っているだけで、大切にされてないのではないか。都合よく扱われているだけなのではないか、その問いについてもまだ確信が持てないままだ。いっそのこと、一度離れてしまえばいいのかもしれない。恋愛なんて期待しては裏切りの連続だ。分からないことばかりで自分を見失うぐらいなら、ないほうがいいのかもしれない。相手のことを信じられなくなってきたのか、自分に自信がなさすぎるせいか、全て不安定すぎるわたしの心が原因だ。


大人になり、手の届かないものと、届くものが目に見えて分かるようになった。人は皆、関わる人も環境も全て身の丈に合うものを選んでいる。最近よくそう思う。

わたしが今、好きな人を好きじゃなくなりそうなこの感覚。疲れてしまったんだ、いろんなことに。その人の心に触れていたと思っていた。けど本当は触れられそうで芯の部分には触れられていなかったのかもしれない。それなのに手放せないのは、きっとそれも大人になったからだろう。


死にたいって誰かに聞いて欲しくなる夜がある。その度に生きる意味を考えては、そんなこと考えても仕方がない。きっと意味なんて全て後付けだ。でも自分が納得する意味に出会えた時、それはきっと人生の中での幸せの絶頂だろう。とそう思うようになった。

そして、わたしがきっと生きててよかったと思う瞬間がこれから訪れるとしたら、くぅちゃんに直接、私に、わたしだけの言葉を貰えた時だと思う。そんな夢のような瞬間は訪れるだろうか。期待しないほうが幸せだ。でも生きることすらネガティブになってしまう今の自分には、それを信じてモチベーションにしていくしかないのだ。

変わるも変わらないも、どちらを選んでも自分で、くぅちゃんはそんな私をも受け止めてくれそうな気がする。何故だろう。苦しくても、ひとりぼっちでも、くぅちゃんだけはいつだってわたしの中に居てくれてる気がするのだ。心から大好きだって思える人がいる。そのことが、どれだけ私を救ってくれているか。くぅちゃんに真っ直ぐ伝えたい。そのために生きるんだ。

今のわたしの精一杯の生きる意味



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