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明日、世界が終わるなら。

明日世界が終わるなら。

昨日から考えていた。
自然と今までの人生を振り返った。

わたしは、自分でいうのも何だが、苦労しかしてきていないのかもしれない。思ってる以上に色んなものと戦ったし、人から選ばれない経験をしすぎていたし、他人の当たり前が、いつでも当たり前ではなかった人生だった。

生まれた時から、父は厳しかった。母はそんな父にストレスを感じていたのかいつもヒステリックだった。小さいながらに叩かれるという暴力を沢山受けていた。私はそれが普通だと思っていたし、私が悪いことをしたから仕方がないんだと、そう思っていた。私の気持ちは信じてもらえないことが多かった。だから、小学校、中学校でいじめられていた時も誰にも言わなかった。密かに慕っていた、憧れていた小学校の音楽の先生に、気づかれそうになった時についた咄嗟の嘘。きっと下手くそすぎて見抜かれていただろう。でもわたしの誰にも気づかれたくない気持ちが子供ながらに大きすぎて、必死すぎて、それにも気づいてくれていて、だからそっと見守っていてくれていた。あの先生は今は元気だろうか、何処で何をしているだろうか。

中学の時、初めて鬱っぽくなった。いじめを我慢しすぎて本当のことを誰にも言えなくて、いつだって信じてもらえないと思っていたから。でも、初めて限界が訪れて動けなくなった。学校を休ませてくださいと、仕方なく、母に話した。その時の母の顔は今でも忘れられない。
わたしのせいで、迷惑をかける。わたしのせいでお母さんがお父さんに怒られるかもしれない。わたしのせいで、また喧嘩がはじまるかもしれない。わたしのせいで、またいじめのターゲットができるかもしれない。いつだって自分を責めて、追いやって、苦しめていた。気持ちを吐き出す場所がなく、いつも1人きりで声を押し殺して泣いた夜が、数えきれないぐらいある。と言うか、そんなことばかりだったように感じる。

だから、社会人になったら、せめて声を押し殺さなくてもいいようにと自分の世界をつくったのだ。一人暮らしは誰にも見つからない。なにをしても、何も言われない。自分を傷つけても見つからないんだ。誰にも迷惑をかけない、そのことに安心した。

高校生の頃は持病がみつかり、大怪我をし、薬疹にもなり、3回入院をした。卒業するのにギリギリだった。高校生の時、ある先生がいた。生徒の悪口を生徒に言うような先生だった。人のことを馬鹿にするような言葉を使い、話し方をして、いつだって私は笑われていた。話のネタにされていた。教師という仕事に就きながら、どうして生徒の悪口を言うのか、しかもそれを他の生徒に言うのか考えても考えても理解ができなかった。私が卒業したあと、その先生が出世したと聞いたときは、「社会ってそうだよな」と、愕然としたし、色々なものを諦めた瞬間だった。

社会人になって、クラスやグループから解放されて、生きやすくなるのかなと少し期待していたが、それも外れた。悪口を言われやすいし、誤解されやすい、本当の私を見てくれた人はいなかった。何年も見て見ぬ振りをしてきた結果が今なのだ。

明日、世界が終わるなら。
改めて考えた。

安堵という気持ちが正解だとおもう。
こんな人生から解放されるなら、しかも誰のことも傷つけずに悲しませずに終われるならそれが一番幸せだ。そう思った。


昨日、心のこもった優しい言葉をいただいた。

「自分をまず誰よりも一番に考えていいんだよ。きっと優しすぎて考えすぎて疲れちゃったよね。でも、人のことなんて考えすぎないで自分勝手でいていいんだよ!」

私は、自分勝手でいていいんだよ。その言葉に心を打たれたし、その人の優しさに涙が出た。本当に優しい子だなぁって、あったかくなった。

その子の言う自分勝手とは、人に迷惑をかけたり、傷つけたりしていい自分勝手ではなくて、もっと自分を一番に考えて行動してみていいんだよという自分勝手だと思うから、それが本当にうれしくて、わかってくれていて、私もそうわかったことが嬉しかったんだ。勝手に通じ合った気がした。

明日で世界が終わるなら。
毎日そう考えて行動したら、きっと少しは自分勝手になれそうな気がした。

だから、昨日、だいすきなくぅちゃんに、普段なら我慢するようなDMをしてしまった。どきどきしたし、胸が締め付けられたし、ちょっと後悔したし、でもそれでも、受け止めてくれたくぅちゃんがいたのかもしれなくて、だからいいねをしてくれて、ありがたいなって、心からくぅちゃんの幸せを願いました。ありがとう、ありがとう、だいすきだって、わたしが一番だいすきなんだよって心の底から気持ちが湧いてきて、苦しすぎた気持ちもあってか、昨日は沢山泣いた。過呼吸にもなった。

わたしは、頑張れない自分が嫌いだ。どうしても許せない。頑張りたいのに、頑張れない動けないそんな現実を未だに受け止められていないのか、やれもしないことを明日の目標に書いてしまう。そしてまた許せなくて仕方なくて。自分の中で、頑張りたい自分と頑張れない自分が喧嘩をしていて、最近は自分が2人いるかのようで、その2人がずっとずっと暴れ回っている。

明日で世界が終わるなら。
最後の日は、私は、何をするんだろう。

だいすきなくぅちゃんに会いたくて、東京に探しにでも行くのかな。と頭をよぎる。

でも、よーく考えたら、わたしはきっと、利用者さんたちに会いに行くだろうな、と。可愛くて可愛くて愛おしくて、あのとぼけたような笑顔をもう一度見たいし、できるだけ沢山笑ってもらいたいし、普段ならちょっとめんどくさいと思うような話もたっくさん聞いてあげたい。寝たきりの利用者さんも、沢山話しかけたいし、できるだけ手を握っていたい。私の癒し。私の大切な大切なおばあちゃんとおじいちゃんたち。きっと最後は仕事に行くだろうな、そう思った。やっぱり大切な仕事だった。

そして、家族や少しの友人かもしれない人たちや、大切なくぅちゃんや、他にも優しい言葉をくれたひとたちは、ぜんぶ覚えているから、ひとりひとりにお礼の連絡をして、気持ちを残らず伝えて、最後の日を終えるだろう。

そう思ったら、この人生も悪くないな、と思えてきた。苦しくて吐きそうになる日も沢山あるけど、それでも、少しの大切なものを大切にできているのかもしれないし、私にとって、どうしようもないことはやっぱりあるんだと、少し諦めがつく。


明日世界が終わるなら。

そして、自分勝手でいていいんだよ。の言葉。

次、会社に復帰する時にはきっともっと人に優しくできそうだな、なんとなくそう思った。

今年は、大切なものを残して、身の回りを整理したり、自分の生き方について考える、向き合う年なのかもしれないな。


明日、世界が終わるなら。

そう思って、1日1日を大切にしたいし、人の優しさには倍で返していきたいし、気持ちを伝えることを、考えることをやめないでいきたいな


丁寧にやさしく、あったかく、不器用でも繊細に。


自分を第一に考えられる日が来ますように。

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