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目に見えなくても「あること」が影響を与える

母から連絡がありました。

「来春親戚が来ておばあちゃんの遺品整理をするから、その前に自分の荷物どうにかして」

実は、実家の片付けしてます!記事をいくつか書いていたにも関わらず、転職決定から、他県への引越し、祖母の死と葬儀、そして就業開始まで2週間。有給もまだなく気軽に週末帰れるわけでもない…と、バタバタと引っ越し作業をした後の、実家のわたしの荷物が片付けられていません。


実家にはなるべくものを置かないようにしたい、と書いたけど、今それも全然守られていません。というのも、今はシェアハウスに住んでいて、例えば調理道具だったり、客用に揃えているもう1組の食器セットだったりはいらないし、持ってきても置く場所がないのです。

おそらくわたしが次にまとまった休みが取れて、実家の自分のものに向き合えるのは年末年始くらい。その際も、ものの量を減らすというより、遺品整理しやすいよう、ただ整理整頓になる可能性も高いです。実家で借りぐらししていた時、祖母の住んでいた母屋に居住していました。そのため、遺品を見にくる親戚がわかるように、祖母のものとわたしのものの区別をしておく必要があるのです。

それにしても、たとえ今そこに誰も居住していなくても、住んでいないわたしの荷物がそこに点在している事実は、なんだかぼんやり頭の中の一部を占拠されているように感じます。短い時間しか取れないとしても、できる限りものをまとめて、次いつかある引っ越し時にも備えたいと思います。
金子みすゞの名詩、星とたんぽぽの有名な一節「見えぬけれどもあるんだよ」ですが、同じ内容でも文脈によってはマイナスに働くこともあるのですね…




さて、実家というと、引越し寸前の実家片付けで大量に捨てたものの中に、ありし日の「捨てられない女&汚部屋時代」写真がありました。写真は捨てましたが、教訓としてデジタルで残しておきました。
20代以降のわたししか知らない方には驚かれることもあるのですが、自分への戒めも兼ねて公開します。

中2か中3の夏休み、遊びにきた友達が撮った写真

足の踏み場と寝られる場所があるだけマシですが、酷い有り様ですね…でも、これも写真で見る(客観的視点)からこそ「ものが溢れている有り様」により気付けるのでしょうね。

今はこんな状況になることはありませんが、疲れていたり忙しい日が続くと、部屋が少し散らかり、土日でリセット。ということは割とあります。ということは、最小限しか持ってきていないはずなのに、ものが多い、あるいは所在が決まっていないものがあるということ。
収納のものすごく少ない部屋なので、入りきらないものが出てくるのは仕方がない部分もある(クローゼット半畳のみ)のですが、収納を増やすとものも増える…

ここに住んで3ヶ月。
ようやく、「収納を増やさずものを減らす」と決めました。


方法はもう、至ってシンプル。
「今年の12月31日までに100個手放す」です。
9月の初旬から始めたので、1日1個なら余裕。毎日向き合う時間がなくても、今日は5分間いらないものについて考えよう、などと少しずつ時間を取って実行できています。
捨てる以外に、譲る、売る、寄付やリサイクルに回す、というのも手放すの方法には含めています。ただし、手放した(使い終わった)後また補充するようなものはカウントしません(ナプキンやコーヒー豆など)

わたしは今の家に住み始めてから「増えたもの(購入したもの)」「減ったもの」についてスマホに記録を取り溜めているのですが、今回の取り組みはあえて手書きで行っています。最後にそのメモ帳を捨てて、ゴール。
今収納に入っていて、視界からは消えている見えないものについても考えるいい機会になりそうです。

年末まで、あと3ヶ月半。暑さはなかなか和らぎませんが、忙しくなる前に、今から動き始めるのもおすすめです!






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madoka
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