敵は外とその外にあり
若者について触れる。
まずは記事を。
インターネット上の書き込みでしか、その情報を目にしたことがないが、たとえそれ——「悪評」——が、事実であったとしても、宮田笙子の復帰をめでたく思う。
「国体」、もとい「国スポ」(SAGA2024)——2024年から「国民体育大会」は「国民スポーツ大会」へと改名されることになっていたらしい——の福井県代表として、団体優勝したことも、宮田にとっては良かった。
ただ復帰を果たした——「×10」で良かった。
「勝つ」ということはそういうことだ。
宮田自身の調子は怪我もあり、今一つだったらしいが、それを他の4名が補う形で勝ったというのも良かったかもしれない。
個人的には、パリ五輪を辞退せざるを得なくなったことへの不服を示し、あくまで出場を目指すべく行動してもらいたいと思っていたのだが、何より大事なのは自分自身の気持ちだ。その上で、私見——。
10年、20年、30年……感覚的にしか言えないが、現在より昔の方が、若者は「建前」を悪徳だと考えていたように思う。
それで社会が回るのか、自分自身社会を渡り歩けるのか——と言えば、首を捻ってしまったりもするのだが、「本音」を美徳として考えていたろう。
先鋭化した「本音」主義なら、SNSが普及した現代においても、やりたいように生きられると思っているのだが、現実は周囲との距離を測ることだけが全てで、それを上手くやれるかどうかの競り合いのみが行われているように見える。
芸能界を中心に、有名人・著名人の立ち回りが“社会の縮図”だとするのなら、かような印象だ。
もちろん、有名人・著名人が、一般人より遥か優れた清廉性を持ち、一罰百戒の高潔さを「本音」として胸に忍ばせ生きているのなら、話は変わってくるが(青山繁晴かよ!!)。
また、今回、初めて喋り動いている宮田を見たのだが、かなりエモーショナルな人間であるよう感じた。
宮田の人生において、それは、一部の切り取りでしかないのだが、短絡的に言うのなら、「理屈」を捏(こ)ねくるタイプよりも、「気持ち」で押していくタイプ。
以下は、競技後、あえて報道陣を集め行った際の宮田の声――
「この度は、私がとった行動によって、たくさんの多くの皆様にご迷惑を掛けてしまい、深く反省しております。申し訳ありませんでした(一歩後ろに下がり頭を下げる)。
この件に対し、真摯に向き合い、今後の競技生活を全うして参りたいと思います」
「正直、(大会)付近で怪我があって、本当に出られるかわからない状況だったんですけど、それでも出たいと思ったのは、福井県の皆さんのおかげだと思いますし――(この後、涙を滲ませたとのこと)」
「またここから、しっかり自信の持てる演技を積み上げていって、今以上に、大好きな体操を、誰よりも楽しめるように頑張って行きたいと思います」
感想としてパッと思いつくこともあるが――「取材」を受けることも、“勝ち負け”の付く「試合」なのだというマインドセットなのかもしれない。
緊張しつつも言葉を間違えないよう答える様子から、そんなことを考えた。
言葉を間違えないという意味では、「試合」より「試験」の方が近いか。
節目、節目の事象の全てが「試験」である――いや、節目が地続き化して、日常そのものが「試験」。
そこまで割り切れているのなら、最早それはイヤイヤの「建前」ではなく、違和感のない「本音」であると言えるのかもしれない。
果たして飛躍させ過ぎだろうか。
しかし、この“現代的感覚”は、30歳の大谷翔平からも受け取ることが出来る。
さらにもう一つ外側に対し、実に“クール&ドライ”な対応をするのが大谷という人間だ。
それは、さも考えること自体が面倒くさいとでも言うような。それが「100点」であることを、すでにわかっていると言わんばかりに。
ただ、そうは言っても――
「チームふくい」としても「パリ五輪代表」としても、チームメイトとの間に問題がなかったのならば、どのような趣旨を以て為された内部告発だったのか。
宮田はパリに残ったチームメイトへ「応援している」とエールを送り、残された4名のチームメイトは、代表は「5人」だという連帯の意思を示すため、宮田のゆかのポーズで団体決勝に登場した。
この告発に公益性があったかなかったかは――いい。告発よりも、それを受けての反応こそが狂っていたという結論は出ているから。
だが、この告発が、ただただ無謬性から来る頓着のないものだったのか、もしくはそれ以外――「信念」や「深謀遠慮」など様々な可能性――のものだったのかの、どちらか程度は知りたくもある。
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