ウサギと亀
一介のブログ書き風情が、どこまで背負い込むのが適正なのかと言えば、諸所に意見があるだろうが、吐いた唾とて拭い取った方が善きとされる昨今において、しかし、果たしてインフルエンサーというわけでもなく――「インフルエンサー」ってそもそも何なんだ?職業?肩書?——まるでその実態が「ジャーナリスト」のように不明瞭であると感じ、……感じ踏まえた上で、今回は「青木理(ジャーナリスト)」の舌禍騒動について触れる。
しかし、早速だが、このブログに辿り着いた方の中で、どの程度の人たちがこの騒動について知っているのかがわからない。だが、あらましを書くのも面倒くさい。
とりあえず言い訳をするのなら、すでに「青木氏の舌禍騒動」を叩き台に、1000文字以上は書いただろう書き掛けのブログがあり、そのことも相俟って、事の経緯を説明するのが面倒なのである。
ただ、そのブログは、「青木・舌禍騒動」を扱いながら、青木氏の発言自体をフリとし、その“善し悪し”を直接的なオチ(要点)としているわけではない。
一方で、文字を重ねていく内に違和感が隠し切れなくなり、“ブログのためのブログ”はやめようと凍結。事実上の没書。
何故か辻褄が合うのではないかと、根拠もないままに、問題とされていた発言の一次ソースを聴こうかと音源を探してみたが、それも見つからず。もっと根気よく探せばあったのかもしれないが、聴いたところで辻褄は合わないだろうと本心では思っていたので、やめた。面倒くさくなってやめた(メンバーシップ限定というやつだったのか?)。
「劣等民族」――。
「列島民族」もなくはないかなと思っていた。
以下、見つけられた音源。
納得のいかない文章を一応の完成とするか、そのためには足掻いてみるか、と薄っぺらい葛藤の下、果たして、先日青木氏本人から、問題とされていた発言に対しての説明があった。当時、その場に同席していたジャーナリストの津田大介氏も発言について補足する。
青木氏は、自らに非があるとして謝罪した。
以下、本稿についての要点。オチ。
待って良かった。
1000文字以上書いたからといって、不本意な文章をブログに載せなくて良かった。
発言から2週間経ての「謝罪」ということらしいが、特に反応が遅かったとは思わない。
「早さ」を善しとし、「初動」が全てだとする―—世間に蔓延しているよう見える考え方を否定する。「最初」であることや「早い」ことが、全てではない。
逆に伺いたい。
「あなたは、今、この瞬間まで完璧な人生を送ってきたのか?」
と。
見事なスタートダッシュを決め、未だ絶好調のままなのであればそうだろう。
または、周囲から後ろ指を差されるたびに、パブロフの犬のようにペコペコと頭を下げ続けてきたのであったとしても、当て嵌まるだろう。
しかし、これらが“人としての評価の全て”なのかと考えると——気持ちが悪い。
以上のことを踏まえ、余談。
青木氏は、結局“それ”について、明確な言及をしていなかった印象がある。
これも、「謝罪」を行ったYouTubeの動画を全て観たわけではないといういい加減さを下に文章を進めるのだが、「日刊スポーツ」の記事を含め、“それ”について最終判断をするのは難しい。
「劣等民族」というつもりで言ったのか。
それとも、「列島民族」というつもりで言ったのか、が。
青木氏が強くフォーカスしたのは、「劣等・列島」ではなく「民族」の部分だ。
批判するにせよ称賛するにせよ、何かをひとまとめにすること自体に問題があるとして、その部分で反省、謝罪したのだ。
カテゴライズすること自体は、個人が年を重ねていく中で得られる知恵であると思っているが、国際的には、これが「国家・地域」単位で扱われだすと善くないとされる。
ゆえに青木氏は、「民族」の側を問題視したし、また批判をしていた人たちも、旧ソ連による「社会主義国」的発想であるとか、ホロコーストの際に「ナチス」が用いたお題目であるとか、といった趣旨で批判していた。しかし、それでもやはり多くの人の感情が逆なでられたのは、「れっとう」が「劣等」だとして受け止められたからだと思う。
「列島民族」だとて、「日本列島の民族」——“単純に「日本人」を指しただけ”と、木で鼻を括ったような説明では無理があったろう。津田氏との掛け合いを見ても、島国であることを比喩とした視野の狭さや、地域的な同調圧力から抜け出せない臆病ぶりを批判していたのは間違いない。攻撃性は含まれていた。
だが、だとしても「劣等」——“君はアホだ”よりは柔らかい。噛んで含めるような丁寧さがある。
であるのならば、それが「劣等」だったのか「列島」だったのかの説明も、丁寧にしなくて良かったのか—―?と、思う。
感情が先行している人たちは、「謝罪」や「謹慎」――見たくない、見たくない、見たくない――が極めて重要であり、そこに至るまでの過程をちっぽけなものとして見ているのかもしれないが、それだけでは「人間の評価」として足りていないのではないか。
懸念するのは、青木氏の内心として、「劣等」ではなく「列島」だったというものが嘘偽りのない気持ちであった場合——にもかかわらず、それを説明に加えると、むしろ火に油を注ぐと判断し、自身への批判拡大を避けんがため、あえて口を噤んでいたかもしれないという可能性だ。
他人の評価より、自分の気持ちを大事にしてもらいたい。
あくまで仮定の話ではある。
個人的には、「劣等」でなかった場合、当然説明をした方が良かったと思っている。
また、このことで想起してしまうのが、同様に問題発言とされた、フワちゃんの「死んでくださーい」というSNS上の書き込みだ。
これに先立ち行われたやす子さんのポスト――
感情を抜きに、あくまで客観的視点のみで評価した場合、フワちゃんの書き込みは「趣意返し」になっている。
お笑い的に言うなら「かぶせ」であって、漫画・アニメ的に言うなら「伏線・回収」。コンプライアンス的に言うならば「意趣返し」だろう。
正しくは、“趣意返し”という言葉は存在しない。
「趣意」とは、それに含まれた考えや狙いをフラットに意味した言葉であって、「意趣」とは、その言葉の中に、すでに“恨み”という意味が含まれたものになる。つまり、世間的には、フワちゃんの引用リポストは(やす子さんが「とっても悲しい」と反応したこともあり)、当然「意趣返し」であると、——“悪意”を元に、その言葉があったと受け止めたわけだ。
けれど、フワちゃんはその後、該当するリポストに対して、距離の近いタレント仲間と“SNS上で不興を買うなら”という想定の元で行っていた遊びであると説明。これを、“芸人の間ではしばしば行われることがある「大喜利」ごっこだった”というふうに書いていた記事もあったが、正直、自分もそう思う。以下、“だからと言って許されるものではない”というのが、続けられた論旨だったと思うが、だからと言ってこの説明が、真っ赤な嘘だったとも自分は思わない。
フワちゃんの書き込みは、「大喜利」であり、「遊び」だった。
結果的に、あまりにも飛躍させ過ぎたがため、それがやす子さんの胸元には届かずに、顔面を引き攣らせてしまったということもわかる。「とっても悲しい」は疑えない。
だが、一方でやす子さんを傷つけることを目的としたリポストだったかどうかは、別評価であるべきだ。それらを総体し、フワちゃんがバッドだったと結論付けるのは、それぞれに自由だろう。
しかし、だからこそ、これは「大喜利(遊び)」だったとする説明は、説明としてあって良かった。なければならなかった。
その後、当事者であるやす子さんが直接フワちゃんと面会した上で、「フワちゃんさんのことめちゃめちゃ許してます! もう終わりましょう!!」とSNSで呼び掛け。
しかし、世間はそれを、「大喜利(遊び)」とは推認せず、“苦しい言い訳”として動かさなかった。
結果、フワちゃんは謹慎——継続中。
やす子さんとは、別人格が断を下した—―まま。
話を、青木氏に戻す。
もし、もしも、フワちゃんの件を奇貨とし、炎上対策として「劣等・列島」という論点を意図的にスカしたのであれば、より一層に懸念は深いものとなる。
この現象をどう捉えるべきか。
一体これは何なのだろう。
ディテールはおざなりにして、とりあえず謝ればいいや――このようなものを、「アップデート」とは呼ばない。
このようなものを「アップデート」だとするのなら、“島国根性から抜け出せない視野狭窄者どもには何を言ったって無駄”、“長い者に巻かれることでしか安息が得られないチキンらには説明してもわかりっこない”とすることと同義だ。
「ジャーナリスト」というのは、火中の栗を拾いに行ってでも“戦う”べき存在ではないのだろうか。
あくまで妄想からなる仮説である。
「ジャーナリスト」って……何だ?
個人的には、津田氏の立ち回りは悪くなかったと思っている。
もし、青木氏の真意が、世間が認識していた通り「劣等民族」だったならば、その瞬間慌てた様子も見て取れるし、それを回避せんとする瞬発力も悪くなかった。
少なくとも、世の中における平均以上には、“場の空気”に流されない懸命さを見せていた。
色々と探している中で拝見した動画。
デリケートな話題の最後を、自分自身でオトすところに粗品さんの生真面目さが窺える。
思わず自分だったら――「うるせー馬鹿」と言ってしまいそう。キレの悪い小便のように、その後、グチグチと言い募ったあとでフェードアウトする姿がイメージ出来る。
ちなみに。
“それ”は取り上げるのに“これ”は取り上げないのかと、「YouTubeのためのYouTube」をやっているYouTuberには失望。