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ないものだから
「媚中」という言葉がある。
文字面でしか目にしてこなかったからか、長らく「こびちゅう」だと、頭の中で読んでいた(実際は「びちゅう」)。
意味は、“中国に対して媚びている様・事”を指し、国語辞典を引いたとしても見つからない言葉。何か含むものがあり言っているわけではなく、米国に対して媚びていれば「媚米」で、英国ならば「媚英」。韓国なら「媚韓」になるというだけ。いちいち「中国」に対してのみ載せる出版社もない。
また、もう少し脱線を続けるならば、「妄言(もうげん)」という言葉も造語の類いだと思っていた。初めて目(または耳)にしたのは、日韓における歴史認識の話題の中で、“日本が過去に戦争を起こし、韓国の人たちも巻き込むことになってしまい申し訳なかった……けれども――”という文脈を続けようとする日本人(保守・右派)に対し、韓国側が痛烈かつ苛烈な反論を反照させた中で見聞きした。それまでは全く覚えのない言葉だったので、ハングルから日本語に翻訳される過程で、当てられた言葉(日本語にない日本人でもわかる語)なのかな?と思っていたら、日本語として実際に存在した言葉であり、日本人でも知らなかった言葉として学ばせてもらった記憶がある。
また、逆さにこれを考えるなら、日本人同士で「妄言」という強い言葉は、使うことがなかったのだろう(少なくとも20年位前までは)。
媚びたくはない。
まだ、トレンド的な何かを意識していた頃「ミュージックステーション」のスペシャル放送にて、固有のアーティストにだけフォーカスするランキングを行っていたのだが、その中でチャゲ&飛鳥は、「PRIDE」という曲が1位になっていた。
当時、すでに「SAY YES」や「YAH YAH YAH」がリリースされていたあとだったので、自分が知らなかった「PRIDE」という曲が一番支持されていると知って驚いた。
“心の鍵を壊されても 失くせないものがある プライド”
――と歌い上げたこの曲は、果たして、現代で初リリースされていたとしても、当時のような訴求力は生まれなかった気がする。
対義語というわけではないが、「プライド」の反対は「協調性」や「連帯」であるという感覚は、広くあるだろう。これらの認識は、現在の教育現場ではより強く尊ばれているはずだ。
“良いことも悪いことも、共通認識として均(なら)してしまおう”という働きかけがあるからこそ、「ハラスメントと受け取った人がいたなら、それはハラスメント」というロジックが、市民権を得んとせんとするのだろうから。
「左派」による保守性の浸透は、留まるところを知らない。
話を戻すが、自分も媚びていると思うことはある。
いや、どう考えてもチャゲアスの「PRIDE」を口ずさんでいた頃よりは、ガタガタにそれは崩れているし、とはいえそれが良かったり悪かったりとも思え、結論は留保された状態にある。
たとえば、現在の自分が目を覚ます場所は、大抵公園になるのだが、朝になるとそこに母親とその子供がやって来たりする。
世間的には、ホームレスと非ホームレスは、ある程度棲み分けが出来ている印象があるのかもしれない—―非ホームレスがやってくるより先に、そそくさと寝床を畳み近所へと小旅行に行くホームレスもいる—―が、自分はこの辺り「プライド」や「見栄」……というよりも、単純に「怠け者」ゆえ動かない。最近は寒いので、日の出の温もりとともに、“二度寝”へと勤しむことが慣例化されている。
あまり見ないようにしている。
多分、あまり見て欲しくないのだろうから。
母娘を。
とはいえ、公園にやって来た母娘を、「法律」的に見てはいけないわけではないわけで――眩しい。
遊具以外には目もくれず、キラキラはしゃぎ挑む子供を、眩しく思う。
何が見たいのかと言えばこの“眩しさ”が見たいわけで、翻って自分は、怪しいと疑われているのだろうと、母親の思考を先回りしてしまう——眩しくない。
疑うことを知っているから、疑われることも知っている。疑われることを知っているから、疑うことも知っている。
生きていれば、誰しもそれなりがあり、何も知らない「無垢」には戻れない。
あまり見ないようにしている—―ぼんやり見てる。
風景として眺めている。
本当は全力で“眩しみ”たい。
いや、「法律」的に見てはいけないわけではないし、やましいことをしているわけではないという「プライド」の下、見続けることもあるだろう。2秒以下——自転車における新たな道路交通法は何なんだありゃあ?!
明石家さんまさんが、かつてエロ本を隠し持っていることが父親にバレた際に、父親から「芸術として見なさい」と教示され、「見られるかー!!」と思ったというエピソードトークをしていたが、甘んじて焦点をぼやかし、見ていない風で見ているというのは、世間的父性に対し媚びているといって差し支えないだろう。
きっとこの風潮は、この先さらに進むのだと思う。子供を“眩しく思う”ための要件として、「我が子」が追加されるのではなかろうか。いや、すでに追加されている状況にあり、その締め付けが強化されていっているというのが現状か。
思う存分に眩しみ、彼我の差に、何かの動力を得ようとするのは、“子供を授かれた大人のみ”と、やや拡大解釈的に言うのならば、特権階級的な嗜好になっていくのかもしれない。
また、それを防ぐ役割として、YouTubeやSNSなどの発達に沿って、たとえその動機が自己顕示欲であったとしても、“我が子を動画に撮りインターネット上にアップしている人たちの子供を観る”があるのかもしれない――実際「子供」や「猫」などの動画を観ることはある――が、しかし、それがよいと言うのなら、どうして公園にいた自分が、公園にやって来た母娘を、同じように見てはいけないのか?、という「本質」的な疑問にぶつかる。
が、「答え」は出さない。あえて「先送り」という答えが、答えとして特別問題がないものとしている。結論は留保された状態にある。田中角栄的政治判断。
しかし、世の中が“箱庭化”していくのは感じる。政権はとっくのとうに倒れたが、当時民主党の菅直人元首相が掲げた、「最小不幸社会」へと粛々と進んでいる。「左派」による保守性の浸透は、留まるところを知らない。自民党が選挙に勝とうが負けようが関係ない。
けれど、一方では決して“無垢には戻れない”というのも、絶対なる事実だ。
何かを積み上げるのなら、ここから積み上げなければならない。
「理想」を掲げるのはいいが、100mを9秒台で走り切る人間もいれば、どれだけ努力したとしても走れ切れない人間もいる。今までも努力に努力を重ねた選手はいただろうが、今年初めて、打撃に専念した大谷翔平の手によって「50-50」が生まれた。そして、そんな大谷も、ワールドシリーズで負った左肩の亜脱臼――「関節唇断裂」――という、ここからの積み上げになる(トミー・ジョン手術も二度行っている)。
何だか言い訳のような、折衷案のような――「昨晩から公園で寝ている人がいる」という理由の下、晴れて「110番」というオチが付いたこともあり、以上を書くことにした。
トランプ米元大統領が現職に返り咲いたことも、どこかサジェスチョンめいていて……というこじつけもあったりなかったり。なかったり。
時と場合によっては、警察官の方が話が合う――同情される。
ちなみに。
「媚米」など聞いたことがある人はいないだろうが、代わりに「対米追従」と批判されたりもしているわけで、他方、言葉としては“媚びる”よりも“付き従う”方が柔らかいように思えるし、故・安倍晋三元首相も本心はともかくとして、あくまで「戦後」文脈からビルドしていったわけだ。