見出し画像

お笑いとエンタテインメント

ホリエモンが言う。
「M-1(漫才)」は先が読める、と。

今回の文章の要旨を先述するなら、このことこそが「理論と享楽の共存」の証明である。

小説や学校の教科書と趣きこそ違うが、大抵の漫才は文字起こしをすると、そこにストーリーがある。
漫才とは「理論」を下敷きに、それを「破綻」させていく作業だ。
さらに言えば、コントよりも視覚的要素が少ないため朗読的になる。
脈絡もなく「バーカ、バーカ」「まぬけ、まぬけ〜」と誰かを貶めたり、「おチンコ!!」と突如として叫んだりするような漫才は、ほとんどない。「M-1」で勝ち上がっていくような漫才師は、そのような笑わせ方をやろうとはしていない。

果たして、ドナルド・トランプ次期米大統領が、どのような暴言を吐いていたのかは詳しく知らないが、「移民は犬を食って生活している」よりは、理知的な享楽を振りまいている。
いや、というよりも、個人的なことを申せば「ほかに食べるものがないのであれば、犬食ったって文句ねーだろ?」というのもあるわけで。
享楽的であったとしても、「笑い(ボケ)」としてクリーンヒットはしていない。

また、話をホリエモンに戻すなら、堀江さんのお笑い偏差値はかなり低いと思う。
ネタにおけるストーリーを理解出来ていないとまでは言わないが――前提条件となる知識は豊富だろう――、さりとて次のボケやツッコミが予測出来ているというのは後付けに過ぎない。おそらくは、“おおよそ、こういうことを言うのだろうな”と付けた当たりを、「先読み」と表現しているだけだろう。
そして、そういう人間が珍しいのかと言えば、きっとそれなりにいる。お笑いが好きで、よく漫才を観るような人は、むしろほとんどがこれに当て嵌まるのではないだろうか。

個人的な感覚を述べるなら、面白い漫才(ボケやツッコミ)を観た時「面白いな」と頭の中で思う。
「今の面白かったなあ」の箱に、自動的に収納される(ただし、記憶力が遥か一般以下なので意識的に取り出すことが出来ない)。
もしも、自分のようなお笑いファンが劇場を埋め尽くしたなら、演じ手側は地獄になるだろう。好きで観ているし、面白いと思ってはいるが、ボリューム面に関して言うならお通夜になると思う。さらに言うなら、芸人側曰く最もタチの悪い「メモを取る客」として、そこに居る可能性さえある(お金を落としているのだから意識を高く観るべきとし、足りないメモリ容量の補助装置として紙とペンを持つ)。

他方、それに対し声を出して笑う漫才(お笑い)とは何なのだと言えば、“ヘンな漫才”ということになる。
「変だなあ〜」の代わりに笑い声が出る。
変な奴を見ると笑いが出る――変な奴を見ると笑う。そこに“善悪”はない。
変な奴を目にした時に生じる生理現象が「笑う」だ。
「今のヘンだったなあ」の箱はない。

漫才も含め自分は、お笑いを数値化(採点遊び)するのだが、“面白いと思う気持ち”と“生理現象として笑うこと”に対して、絶対的な優劣はない。
表面上くすりともしなかった漫才の方が、奇声のような笑い声を漏らした漫才よりも、採点にして起こした場合、高得点になることもある。
ただ、若い頃と比べ、近年の方が「変な奴=笑い声」を、評価として高くする傾向にある。
具体名を挙げて恐縮だが、昨年の「M-1」において一番面白かった(高得点だった)漫才は、さや香が2本目に披露した「見せ算」であり、声を出して笑っていたが、さや香と優勝争いを演じていたヤーレンズに関しては、面白いなと思いながら、ひと笑いもしていなかったと思う。
また、優勝した令和ロマンはその中間といった印象(優勝すべくして優勝した感じ)。

だから、粗品さんも似たような感覚であるようなのだけど、声に出して笑うことが面白いの全てではないし、そもそも「面白い」という日本語は、ある種異質なほど幅が拡過ぎて(「戯れ言」や「戯言」など同じでいいじゃんという日本語がそれなりにあるにもかかわらず)、個々人において相当にバラバラで解釈されている。
これをありていに言うのなら、「お笑い」としての面白いと、「エンタテインメント」としての面白いで、二分される。
しかし、これも正確に言うのなら、「エンタテインメント」の中に「お笑い」も存在しているわけで、にもかかわらず日本においては「松本人志」という唯一無二の異質な存在により、“エンタメとして面白い”と“お笑いとして面白い”が強く分けられてしまった。

少し話は逸れるが、頑なに松本さんを評価したくないと決めて掛かっている人は、この感覚がわからないのだと思う。馬鹿にするわけではなくて、本心から理解が出来ないのだろう。
理解の及ばない異質、もとい違和感として、「松本人志」登場以前の、“エンタメの中に包括されていたお笑い(演芸)”に、「お笑い」を埋没させたいのだと思う。
それは、すでにある感情、または感覚を闇に葬る作業であり、本来ならあって然るべき言葉――映画は「面白い」、漫才は「おもろい」などと、可視化されるべく確立を図った方が良かったのかもしれない――を喪くすことは、文化的に考えて、かなり重い罪であると思う。
これを堀江さんに当て嵌めると、ホリエモンの人生とは、人生がエンタメ化し過ぎて、局所的なお笑いとしての面白さでは、刺激が弱いのだろう。

だけど、だからと言って「漫才」の先が読めているというのは違う。あくまで他人の頭の中の話なのだけど、「違う」と断じよう。
論拠は、“だったら自分でネタ書きな”という――。

漫才の先が読めるのであれば、本来ネタも書けるはずなのだ。
だが、堀江さんは、自身でネタを書くことはしないし、書けるとも言わないし、「先が読める」と大口を叩いたその場で、「じゃあ面白いネタを書いて下さい」と言われたならば、結局のところ書くことが出来ない。書かないのではなく、書けない。

つまり、先読み出来ていたとしてもその程度の先読み。お笑いファンだったら出来ているのではないかという程度の先読みだ。
「R‐1ぐらんぷり」で2回戦敗退だったことが争点なのではなく、仮に決勝まで辿り着いていたとしても、自身ではネタが書けないということこそが争点。
従って、堀江さんが「M-1(漫才)」を観て声を出して笑えない理由は、先述した通り別にある。
おそらく、スピードワゴンの井戸田さんが演じるキャラクターの「ハンバーグ!!」や、小島よしおさんの「そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!」などが面白いと感じるのは、“大きな音に対して反応(生理現象)が起きる”というお笑い偏差値だというだけだと思う。

先日も、現Xの社長であるイーロン・マスク氏を中洲で接待したことがあるという堀江さんの記事を見たが、堀江さんにとっての面白いとは、“エンタメとして面白い”寄りであり、刺激重視。
それこそ、「M-1」の賞金である1,000万円など端金だろうし、ダイナミズムが足りないのだろう。また、だからこそ、微に入り細を穿つほど理解出来ているという理論は違う。

だが、だからこそ、一方で、家でゲームをやって映画を観て漫画を読んでネット散策しているから、「1日中暇じゃないんですよー」と言うひろゆきさんより、素材としては面白い。
「お笑い」の一部としておもろい。

以上をもって最後になるが、堀江さん、もし仮に反論があるのであれば、連絡してきて下さい。
メールお待ちしてます。
相撲取りましょう。
下手投げでぶん投げてあげますよ。
「チャンコー!!」
(きっと、カマラ・ハリスより遥かにおもろい負け惜しみを言います)

余談。
「チャンコー!!」
書いた側が言うことじゃないが面白えかな、これ?
いや、全然面白くねえな。
そもそも文字でやることじゃねえし。
「チャンコー!!」だったら「まわしー!!」の方が面白いわ。
だって意味わかんないもの。
仮にホリエモンがまわしを付けた上でぶん投げられてても、まわしを付けていない状態でぶん投げられてても、どっちであったとしても面白いもの。

この違いがお笑い偏差値である。
わかったか、ホントに、この野郎。
「まわしー!!」

言語能力の低い日本人(?)でも、わかるようなわからないようなわかるような……何か言っています。

いいなと思ったら応援しよう!