サブカル大蔵経722細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男』(新潮社)
560ページすべてが昭和の宝物で詰まっている。どの分岐点もありえた黎明期の格闘技と芸能界を執念の現地取材で描き出す。本書出版後に沢村忠逝去。現代の格闘技界の礎とも言うべきキックと沢村が取り上げられない謎。
「教えて下さい。沢村忠の試合は真剣勝負だったんですか、八百長だったんですか」p.374
令和3年度講談社ノンフィクション本田靖春賞最終候補作品。
本書は主人公が望む伝記にするつもりもなければ、巷に溢れる「インタビュー本」にするつもりもない。p.374
追記
7.15「カミノゲ」114号の座談会で、ゲストの佐山サトルが、沢村忠との交流を語っていました。佐山は沢村の人格をべた褒め。しかし、沢村の、人に会いたくない描写も尋常じゃないレベルで、お二人の貴重な交流のお話でした。
7.16 ノンフィクション賞受賞されました!
「左だろう」p.147
ビートたけし談。野口修のボクシングを見ていたたけしと、それを教えてくれた鶴太郎。太田プロ時代の会話が知りたい。
いやさ、要はやくざ対策なんだ。早い話が番犬みたいなもん。俺だけじゃなくて、柔道部や空手部、応援団のやつとか。結構この時代のテレビ局に引っ張られているから。p.193
花の応援団のよう。永里高平NETディレクター。猪木アリ戦、新日にも参画。
「日本の格闘技の歴史で1番のターニングポイントと言えるのは昭和39年の大山道場とムエタイの他流試合でしょうね。」p.241
石井和義館長談
藤平が身体ごとぶつかっていくと、頭突きがアゴにヒット。p.262
タイでの、この頭突きが歴史を変えた。
「白羽に別名を名乗らせるなら、名前だけでも中村忠に似せよう」と考えたのだ。p.295
〈沢村忠〉と興行としてのキック・ボクシング誕生の歴史のあや。紙一重の連発。
「申し訳ないですが、金輪際キックボクシングの実況は勘弁して下さい。ああいうゲテモノを担当すると、自分の価値が下がります。」p.336
スポーツではない〈ゲテモノ〉の実況。徳光、古舘、福澤たちの系譜。
翌年1月から少年画報にてスタートさせたのが『キックの鬼』だった。p.342
『空手バカ一代』や『四角いジャングル』の2年前の梶原作品。メディアミックス。
プロレスと同時スタートの兄弟番組ということにして、『ワールドプロレスリング』と「ワールドキックボクシング」と名付けた。p.359
TBS、日テレに続いてNETも参入。平成の大晦日格闘技戦争での最後発日テレ「猪木ボンバイエ」のような趣きか。「ワールドプロレスリング」という名称の由来。キックのバーターだったのか。
握りしめた拳を力強く叩きつける、パンチをイメージした異色の振り付けである。野口プロ所属の証にして「俺だって戦っている」というアピールでもあった。p.462
〈夜空〉の拳振り付け
五木ひろしこそ「日本のディナーショー歌手第一号」なのである。p.500
ラスベガスでの経験と挫折。NHKでの五木ひろしショーを観ていると、場数の桁が違うことが滲み出ている。