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サブカル大蔵経652塙宣之『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(集英社新書)

ナイツ塙が満を持して新書のマウンドに立つ。受け手は中村計。『佐賀北の夏』や『勝ちすぎた監督』など、野球を題材に、当事者たちにかなり踏み込んだ取材が印象深い方。塙さんは、番組や野球雑誌で野球とお笑いの対比コメントもしていますが、両道は通ずるところ多いのでしょうか。

ただ、本書が的確すぎるので、演者にとってのマニュアル化になったり、塙さんがご意見番の役を求められすぎて、権威化するとその反動も出てくるのかもしれません。

こないだ聴いた「東京ポッド許可局」で、マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオの御三方が、Mー1出場者や審査員の理論や感想ばかりが正しいものとして、その他の人の批評を受け付けなくなると、そのジャンルそのものが硬直化していくのでは、と話していたのも印象的です。

ちなみに本書は、法話をする僧侶にとっても示唆深い内容でした。塙師匠です。

自信がない人ほど、ネタ中に思わず笑ってしまいましたみたいな笑い方をするものです。p.35

 たしかにこれは悪目立ちします。私も自信がない時、法話でしてしまうかも。

スッとネタに入るコンビを見ると、その後のネタへの期待がぐっと高まります。p.69

 私の父も、法話では前置きしなかった。私も通夜法話でそう心がけています。

落語家も、受ける人ほど余計な事は言いません。p.157

 どうして人は、私は、余計なことを言ってしまうのか。

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全面カバーはインパクトありました。

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強さーなぜ僕がそこにこだわるかと言うと僕にはないものだからです。p.13

 漫才における「強さ」とは〈関西〉か。おしゃべりボケツッコミの環境。

一種の病なのだと思います。p.14

 漫才という業。非吉本故の客観性。

結構どころか、それしか考えてなかったのです。吐き出すにはいい機会です。p.15

 荒俣宏さんも最初の方の著作で、〈今まで溜まっていた知識を全て吐き出す〉という言い方をしていました。この「溜め」が名著の条件かもしれません。

バッターがいないところで投げる練習が無意味なように、漫才もお客さんがいないところでやっても得られるものほとんどありません。漫才はお客さんと一緒に作っていくものです。p.29

 無観客や配信の場合、別物か。漫才というお客さんとの共同作業…法話もかな?

ロックの核は怒りです。上方の漫才師は、とにかくいつも怒っています。怒りを芸にぶつけています。怒りは感情の中で、最も熱量が高い。短時間でお客さんに何かを伝えようとしたら1番インパクトがあるのだと思います。ただM-1で勝つには怒りに変わる強い何かがないと、なかなか評価されないのだと思います。p.40

 昔の「ガキ使」フリートークでのダウンタウン松本の〈怒り〉には、浜田も真剣に匙を投げるような振舞いをしていた記憶があります。松本の天才が、怒りから哲学に広がっていく時も有れば、只の怒りの時もあった。それがあって今なのかも。

最近特に自虐ネタが多いような気がするんですよね。太ってるとデブネタ、ハゲているとハゲネタ、容姿に自信がないとモテないネタ、売れてないと暇ネタ、それはネタとは言えません。フリートークの分野です。W-1も女芸人の彼氏いないネタばかりで正直見ていてしんどくなりました。「私今まで付き合ったことないんですよ」みたいなのが始まると、僕は、その間にネタ見せてくれる?と言う感覚になってしまうんです。p.57

 容姿ネタ問題、塙、ズバリと言ってるんですね。

それをあえて馬鹿だと言わずに土屋が付き合ってくれているところに独特の世界観が醸成されていくわけです。p.66

 全否定しない柔らかさ。言語化してわかるその独自性。

つまり、相方とも、客席とも、結ばれてない漫才、つまり点に見えてしまいました。かまいたちはコントでは実にうまく間を使っているんですが、漫才になるとアップテンポになるあまりその余裕が見えません。p.78

 たしかに、何か閉じた感じの違和感。かまいたちも見取り図もそうですが、もう、塙さんは批評で人を奮起させる立場になっています。

間違っている事でも、ボケと言う括りの中に入れることで人間はこんなに自由になれるのだと。僕は松本さんを見て、生まれて初めて許されたと思いました。p.87

 松本が救ってきた人たち。ボケという破壊的平等性。

山ちゃんは決してしずちゃんを攻撃しないんですね。そこがおかしいんです。山ちゃんは終始しずちゃんをなだめているだけです。もっと言えばあやしています。音楽では子守唄のようでした。p.199

 南キャンこそ元祖傷つけない漫才?

そこへ行くと、オードリーはジャズなんでしょうね。表面上穏やかですが、内面には激しいものがほとばしってる。予定調和を嫌い、お互いでお互いを縛らない。圧倒的な自由こそ、彼らの生命線なんです。p.206

 オードリーのギリギリの自由こそが、ネタを超えてリアルに人を惹きつける理由なんですね。その奥の葛藤や熱情。おぎやはぎにも通じているものでしょうか。

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