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サブカル大蔵経791磯崎憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』(新潮文庫)

『「利他」とは何か』(集英社新書)の執筆者のひとり磯崎憲一郎さん。個々の作家が物語を紡ぐのではなく、大きな物語の流れをその時代時代に現れた作家が代弁して書く、みたいな文章がすごく印象的でした。

磯崎が私淑した保坂和志、保坂が傾倒した小島信夫。その流れを追うことで、私も第三の新人に辿り着くことができました。

磯崎さんの小説「肝心の子供」は、なんとブッダの話でした。しかもその息子と孫の三代に渡る話。いわゆる仏伝を踏まえながら、端折るところと、ここを描くのか、というギャップが新鮮で刺激的でした。

歴史上の高名な仏教徒で、結婚して子息がいるのはゴータマ・ブッダと親鸞聖人しかいないのでは?と思ったことがあります。

しかもその子たちがなぜ教団の後継者になれなかったのか。二代目になれなかった、ラーフラと善鸞に興味を持っていました。

善鸞の伝説について、今井雅春さんの研究では、父親である親鸞との義絶はなかったとされています。実際、親鸞聖人御旧跡と呼ばれる関東の地域を訪れた時も、善鸞の影響の深さを感じました。

本願寺史観・京都本山中心主義ではヒールとして排除されているけれども、善鸞を含めた関東の原始真宗の歴史は、常識がひっくり返るくらい重要だと思っています。

そして、ラーフラ。なぜラーフラ教は出現しなかったのか。なぜダイバダッタはラーフラを担がなかったのか?

ラーフラが十大弟子のひとりに数えられたということは何を意味するのでしょう。

そのラーフラにスポットを当てる視点は嬉しかったのですが…。

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王宮の庭の丘に生えるこの大きな木に、彼は子供のころから自分でもなぜだかはよくわからない愛着を持っていたp.12

 今年、境内の木をかなり伐採しました。仏教は木陰から生まれたとしたら。

それをまったく意に介さないブッダの不遜な態度に別の不安を感じてしまった。p.28

 親のスッドーダナから見たブッダ。息子としてのゴータマ・ブッダ。

夫のいなくなったいま振り返ってゆっくりと思い出してみると、なぜだか一緒に暮らしていたころよりもお互いが近付いてp.41

 妻のヤショーダラから見たブッダ。夫としてのゴータマ・ブッダ。

あなたは城を捨て、祖父王や母を捨てて、修行の道に入った。p.71

 ラーフラが辿るブッダの道。ブッダの孫から見た父親としてのラーフラ。

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永江雅邦
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