サブカル大蔵経474辛島昇『インド文化入門』(ちくま学芸文庫)
南アジアは我々の多くにとって未知の世界である。その独自性は、我々の住む東アジア、あるいは東南アジアと比べてみて、初めて明らかになる。p.3/我々は南アジアの歴史と文化から多くのことを学べるはずである。そして、我々の直面する問題を、南アジアの人々と共に考えていくことが必要なのである。p.4
さまざまなインド本の中でも、本書はかなりの良書だと思います。
大概のインド本は研究分野や時代、個人的体験の思い入れ、ビジネス的データのどれかに偏るんですが、本書は著者が培ってきた固い業績と柔らかなエッセイがミックスされた奇跡のスパイスバランスのような。
もとは放送大学のテキスト。仏典を読む前にも必須な参考書になるかもしれません。
最近のインドではこのヴィシュヌ信仰、ラーマ信仰と言う特定の宗教的立場からするラーマ物語の国家的標準化が行われていて、より豊かなインド全体に適合するインドの文化表現としてのラーマ物語が抹殺されようとしているのだと言う。p.27
ヒンドゥー・ナショナリズムが「ラーマヤナ」にも及ぶ。日本で「古事記」の読まれ方が各時代で利用されるのに通ずるか。
「今インドが独立すれば、イギリスの支配がバラモンの支配に変わるだけであって、われわれは独立を望まない。イギリス政府の助力を得て、バラモンの力を制限し、自分たちの権力を確立していきたい」と主張したのである。非バラモン運動。p.38
インドとスリランカにおけるイギリス。支配者はイギリスか国王かバラモンか。
インドでは、ヴァルナと別に、ジャーティと言う言葉によって表される集団があるからである。実は、このような混乱の原因はポルトガル人にある。なぜポルトガル人かと言えば、16世紀に彼らがゴアその他の地に住み着くようになった時、インド人の社会を観察して記録を残したからである。それによると、そこに上等下等の区別があったり、職業を同じくする集団があったり、一緒に食事をしなかったり、結婚しなかったりと様々であったのであるが、ともかく彼らポルトガル人には奇妙に思えるその様々な手段を、「血糖」「種類」などを意味するポルトガル語で総称して「カスタ」と呼んだのである。そのポルトガル語が後に英語に入って「カースト」となったのであるが、実は上記したように、インドではヴァルナ、ジャーティと別の言葉で呼んでいた性格の異なる2つの集団を、同じカスタあるいはカースト、と言う語で呼んでしまったところに混乱の原因がある。p.47
カースト制度は、外から発見されたんですね。外付けというか。その観点からあらためて仏典を読み直すことができるかも。
ヴァルナとは元来「色」を表す語であるが、それがなぜ身分の区別を表すようになったかと言えば、/アーリア民族が、自分たちの肌の色が白いのに対して、先住民の色が暗かったことから、色によってその区分を表したことによっている。p.47
北インド人はほりが深いイメージがありましたが、アーリア人は白人だったんですか…。そりゃヒトラーも納得か。インドはアジアではなく、ヨーロッパの極東か。
ガンジス川上流域にはアーリア民族の有力部族が定着しバラモンの力が強かったが、中流域には多くの先住民族が住んでいて、そこに形成された国家はバラモン教的伝統から比較的自由であったのである。p.111
こういう地形的な知見も貴重。
それは仏教の成立の頃から自己改革を始めていたバラモン教が、ヒンドゥー教として徐々に力を伸ばし、人々の生活の中に根強く入り込んでいたからである。p.114
インドに行った時、店内や車内にヒンドゥーの神様のイラストのポスターがよく貼ってありました。仏壇的なものかも。
(スリランカの)仏教は、ヒンドゥー教、民間信仰(菩提樹の信仰を含む)をもその中に取り込み、またピリッドの儀礼を人々に行うことによって、在家者の信仰をつなぎとめてきたのである。仏教がヒンドゥー教の中に取り込まれたインドとは、ちょうど逆の関係である。p.124
スリランカというインドの写し鏡
スーフィズムは10世紀頃から盛んになってきたイスラム教における神秘主義で、神への愛、神についての神秘的知識をもとに神との合一を説くものであるが、似たような考え方はヒンドゥー教のバクティ思想の中にも見出せる。バクティは、神を愛し、神に帰依することによって、神の恩寵を得ると言う考えで、信仰運動としては7世紀以降の南インドで発展した。
バクティとスーフィーと念仏の近似性
現在インドで食べられている菓子とスナックの名称を調べると、甘いもの(ミルクで作る)は全てアーリヤ語に起源を持ち、辛口のもの(カレーの味付け)はすべてドラヴィダ語に由来すると言う。p.172
これ、マジですか…!
「インドでは俳優は普通の人にとって大変に身近な存在で、困ったことがあると、親戚に相談するよりも、俳優のところに助けを求める。」スハーシニ監督談。p.207
大晦日に「ムトゥ踊るマハラジャ」をBSで観ました。インドでの映画や俳優という存在がメキシコでのルチャ・リブレやプロレスラーに重なる感じがしました。
(ガンジーの)非暴力、非協力の闘争方法、/それが生み出されたのは、この南アフリカにおいてであった。彼の滞在は、一時帰国を含めて、21年に及んだ。p.245
南アフリカでの体験が後のインドでの運動に繋がっていくとは知らなかったです。