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サブカル大蔵経717細川巌『晩年の親鸞』(法蔵館)
『龍樹の仏教』の著者、細川巌さんの広島県福山市での記念公演を書籍化。
細川さんは理系出身の仏教学者です。理詰めの文献学と、僧侶以上のロマンティックな筆致が同居していて、グッときます。
同じような経歴を持つ植木雅俊さんや佐々木閑さんらが一般仏教書を牽引している理由を考えると、今はおそらく本物の知見が求められているのだと思います。
既存の常識として通用していたことが一般の方々には説得力がなくなってきました。それを既存の宗派のしがらみのない人たちが切り開いてくれた。それは中村元さんの遺産だと思います。
僧侶たちは〈宗派〉と〈仏教思想〉は別物と考えている節がある。現場の檀家さんにはそんな遠い昔のことは関係ない。学者の講演にうなずきながら、現場は違うと。
それも正しい側面です。意識高い系の上から目線の正しさは人に伝わりません。私とは関係のない世界だと思われた瞬間、拒絶されます。それを一番危惧したのが釈尊だったと思います。
学者と僧侶。どちらも満たされない中をつないでいく場があるといいなと思います。お互いがマウントを取りながらもがいていくしかないと思います。
称名念仏のすすめ、仏恩報謝のまこと、宿業の諦観。親鸞聖人は、前述のように八十代で大きく変わられた。p.11・13
『教行信証』以後の親鸞は、変わったと。書誌学的見地からの提言。
聖人は、『教行信証』では、信心を重要視され、それに対して『浄土文類聚鈔』では大行重視、念仏重視、に変わっている。p.37
ブレる親鸞。だからこそ、宗祖として信頼できる気がします。
浄土とは、対象化され固定化されて、私の向こう側にある世界ではない。つまり浄土という所が世界のどこかにある、ということではない。浄土は私が仰ぎみることのできる世界であり、私と離れることのない世界であり、同時に私のかえるべき世界をいうのである。そこは弥陀の場であり、そこから弥陀が生きた力を持って、私に働きかける世界である。p.97
浄土とは。物理学的な考え方からの解放を物理学者だからこそ提言できる。
西本願寺のものは真蹟本に近いが、これも疑問があるという。したがって真蹟本にまちがいないのは坂東本だけである。そこで現在はそれを中心に教行信証を勉強していくという風潮になっている。p.112
何を底本にするか。どれが正しいではなく、基礎的な当たり前の思考。
善鸞義絶後、曇鸞大師の教えをくり返し頂戴し、さらに法然上人の教えを再思、三思されたのである。p.127
『二回向文類』。七高僧への信頼。
聖人は偶像化・カリスマ化され、本当の求道者としての姿が伝えられなくなってきたのではないか。私は文明本の罪は大きいと思う。p.140
「正像末和讃」の〈編集〉の問題。この辺りが面白いし、誰も教えてくれない。カリスマ化させてはいけない。申し訳ない。
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