サブカル大蔵経918宮城顗『教行信証はなぜ書かれたか』(法蔵館)
本書では講演会場での聴講者からの質問も受け付けるのですが、「仏法の話を聞いて、それでどうなるのですか。」という質問に対しては、
「どうもなりませんね」ということなんですね。p.309
…しかし、
私たちの根性は直らないけれども、その根性を悲しむ心を与えられるということでございましょう。p.310
このような対機説法にも宮城先生の真髄があるというか、全ての宮城論文は常に相手を想定して伝えてくれてるような。
「なぜ真宗の本堂では、お釈迦を安置しないのですか。」と問われると、
なぜ、阿弥陀一仏なんだと、こう詰め寄られるわけですね。そういうように詰め寄られますと慌ててしまいまして、阿弥陀さまはこういう徳があると、こう阿弥陀さまを選ぶ必然性を、そういう阿弥陀さまの徳に求めるという形で、阿弥陀さまをある意味では絶対化していくということがございます。/もしそういうことなら、仏さまや阿弥陀さまを、いくら御本尊といいましても、阿弥陀さまより選ぶ人間の方が偉いことになります。p.297.8.9
僧侶の言質が阿弥陀や仏法を権威化、絶対化することの危うさを伝えてくれる。
阿弥陀が私を選ぶ。人間が規定しない。
一番印象的なのは、
僧伽というのは、決して仏法に目覚め、仏法を求めて生きているもの、そういうものの集いだけを、僧伽というのではないでしょう。そこには、そういう完結した世界を否定してくるような、突き破ってくるような、そういう存在を包み込んでいく、あるいは応えていく、そういう展開を歩みとしてもつのが僧宝であり僧伽なのです。p.29
異端も反対も認めるこその僧伽。
リアル阿弥陀。
「人間の愚かさとは、なにに対しても答えをもっていることだ」という言い方をしておられます。p.15
ミラン・クンデラを引用。
精神の傲慢。微笑みを失った信仰。疑いにとらわれたことのない真理。p.212
ウンベルト・エーコを引用。悪魔のしるし。今の日本の教団の宗教はどうだろう。
内容的には「信巻」と「化身土巻」の二つだけに問答がおかれているということがあります。p.17
化身土の価値を説く文章に初めて出会いました。あれは付け足しだと言う人もいる中で。聖教のすべてに委ねていく姿勢。
使命感をかかげることによって、いつの間にか清沢先生の教えを自分の背後に、あえていえば、権威として背負うようになっていってしまったのです。p.46
大谷派の短所を長所に。すごい。
「本願」「念仏」「信心」というような、その言葉を出せば皆が頭を下げるというような、何かその言葉が使われると、そこで議論が止むというような、そういうことになっている部分がやはりあるのではないでしょうか。p.52
大事な言葉こそ黄門の印籠となる。徹底的な権威否定。一種のアナキズムに感銘。
「信心なきひと」というのは、道を求めてもがきながらなお信心を得ることができずに苦悩している人のことをいわれているのではなくて、いうならば、僧伽の中にあって、自分たちこそ僧伽を担っているのだと、そう自負している人なのです。p.68
『聞書』において蓮如上人を怒らせる人。
途中で終わってしまうのです。そうしますと、死んだ後、浄土に生まれて浄土で仏道を完成したいと願うことが起こってくる。p.76
比叡山の〈朝題目の夕念仏〉の意味。目標やゴールではない、道場としての浄土。
さわりのない人生などということはない。この人生、人間として生きていくうえで、必ずさわりに出遇う。しかし「一切の有碍にさわりなし」と。これはどういう問題が出てきても結局そういう有碍において、それに縛られることも、挫けることもなく、進んでいけるということです。p.196
言葉遣いに本当に隙がない。どんな人が聴いているのかという想像力がすごい。
悲しんで声をあげて泣く、号泣するの号ですね。p.147
名号の号は、号泣の号。
みのもんたさんの口から南無阿弥陀仏とこう出まして、うっと思いました。p.177
「ミリオネア」をホテルで見る先生^_^