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知の訪れ:『総合ー人間、学を問う』まであと3日

おはようございます。MLA+研究所代表の鬼頭です。この連載も残すところ、あと3~4回でおしまいです。

昨日、ご紹介をした上柿さんが、拙記事を訪ってくださいました(「朋有り、遠方より来る」ですね)。この場を借りて感謝申し上げます(私信へのお返事は、しばしお待ちくだされば幸いです)。
さていつものように、(役に立っているんだか、そうでないんだか、定かではない)宣伝から参ります。


えっと、昨日は「概念工学」についておはなししながら、学びというものが「まねび(真似)=模倣による変化」のことではないか、というはなしを致しまして、それっていつ「やって来る」んだろうね?と問いかけておわった記憶がおぼろげにあります。

せっかく上柿さんが訪ねてくださったので、上柿さんの「思念体」のはなしから、今回のはなしをはじめていくことにしましょう。

「思念体」という言葉を難しく感じられる方がいらっしゃるかもしれませんが、基本的には上柿さんが作成なさった図を、まず追われるといいんじゃないか、と思います。
西洋哲学は古代ギリシア哲学の出した問いへの応答であるというようなことはしばしば言われますが、この図は上柿さんもまた、その〈変奏〉であるという図でもあります。
と同時に、その〈変奏〉を通じて、上柿さんは西洋哲学のある図式の〈転換〉を促そうとされておられるのだとも思います。
簡単に言うと、プラトンの〈イデア〉です。
>「非物理世界」がどれほど精巧に見えようと、それは本来の現実ではなく、またそこに存在する私は、あくまで「物理世界」にいる本来の私の影のようなものに過ぎない
というのを、
>現実世界がどれほど精巧に見えようと、それは本来の現実ではなく、またそこに存在する私は、あくまでイデア界にいる本来の私の影のようなものに過ぎない
と書き換えれば、大まかにはプラトンのイデアの説明となります。
けれど、上柿さんはここから、
>人間の本質が、身体から切り離された精神体としての「思念体」にあって、その「思念体」としての私が、「物理世界」の身体やロボットアバター、あるいは「非物理世界」のVRアバターという形で、現実世界に具現化するという世界
を描き出し、身体的な=物理的な私の地位を「非物理的なアバター」と同格にする、つまり「本来の私」としての地位を引き下げて、そこに精神体としての「思念体」をもってくるわけです。
再び上柿さんの言葉で言うと、このような「思念体」を想定することで、
>「身体の私」が主となり「アバターの私」が属になるのではなく、かといって「アバターの私」が主となり「身体の私」が属になるのでもない。私たちは複数の現実、複数の人格、複数の人生を両立できる
ことを表現されているということになるはずです。

この上柿さんの文章に対して、私が思うことは沢山ある(個々の論点に賛同し得るかどうかは別として、そういう風に思考が膨らむ文章というのは「良い文章」です)のですが、今回取り上げるのは、そのうちの1つです。
それは、
ヒューマニズムの思想と、「思念体」の世界観には非常に深い親和性がある
という上柿さんの見解への「異論」となります。
ヒューマニズムというのは、色んな説明の仕方がありますが、ここでは、外から自由になって、個人が自分の思い通りに自己決定することを理想とする考えかたとでもしておきましょう。
ざっくり言うと、「思念体」が「やりたい」を「アバター」が実現し、やがてこの仮想世界から「意のままにならない他者」を追放した生を好むようになることが、そもそもヒューマニズムの「行き着く先」ではないか、ということです。

私はこの説明に引っ掛かりました。
どう引っ掛かったのかと言うと、
>現実世界がどれほど精巧に見えようと、それは本来の現実ではなく、またそこに存在する私は、あくまでイデア界にいる本来の私の影のようなものに過ぎない
という考えかたが強固でない世界がもしあったら、「思念体」の世界観には別な展開もあるのではないかということと、
同時にヒューマニズムにもまた別の「行き着く先」があるのではないか、という意味において、です。

私の引っ掛かりは、上柿さんが「「物理世界」にいる本来の私」と表現するものにおいて、「意のままにならない」のは「身体」だけなのだろうか、という問いです。
近代は「アイデンティティ」の時代とよく言われますが、「本名」を束とする「一人格」に何でもかんでも束ねてしまうことは、デジタル世界においても残存しているように思います。
その一例は、「マイナンバー」であったり、ある特定のSNSのアカウントで他のサービスがログインできるようになっていることです。
上柿さんの「思念体」の想定は、
>本人がそれを望んだ場合を除いて、アバターの私の人格を、身体の私(あるいは別のアバター)の人格から独立したものとして理解する
ということが1つの掛け金になっていると思いますが、
「本人がそれを望んだ場合」の「本人」というのは、一体「誰」なのでしょうか。
この表現において、「思念体」は「本人」だと識別されることができるということになりますが、そうすると「思念体」というのは物理的には拘束されないものであっても、制度的には拘束されているということになるかと思われます。
もし「思念体」の思想を徹底するならば、もはや「本人」だと識別され、紐付けられること自体が煩わしく感じられ、アバターの束しか存在しないはずですが、他方で当の「思念体」以外が匿名であるということの「不安」を、すべての「思念体」は許容するでしょうか。
私は、田中優子さんの描く江戸「像」は、その暗部に対して、少し「明るすぎる」のではないかと思いますが、ある種の「家」職及び徴税と虚構の複数のサロンのなかに「わたし」がいたことが「生きやすさ」になっていたのではないか、という指摘には汲み取るべきものがあると考えます。
つまり、「思念体」によって成立する「アバター」世界というのは、デジタル技術が「促進」することこそあれ、その技術が無ければ成立しないというものではない、という点においてです。
要するに、複数の「顔」の使いわけを許容できるかどうか、「本名」の地位を低下させることを許容できるかどうか、がこの「思念体」の世界を成立させるための最低条件なのではないか、ということです。
しかしヒューマニズムが、自己決定する私が誰であるのか、その「本名」を問題視するかぎりにおいて、そもそもサーバーから、プラットフォームから、すべて現実世界に自前で準備できるのでもない限り、「本名」が制度的に無くなることは展望しにくそうです(いかなる意味でも「本人確認」をしないプラットフォームが無いということは、プラットフォームの「危機」においては、「本人」が問える場所に戻ってくる、ということを意味します。そして、少なくともこの「瞬間」において、「虚構」世界は「現実」を凌駕することはありません)。

「思念体」のはなしが面白くて、ついつい脇道に逸れてしまいましたが、
>「まねび(真似)=模倣による変化」っていつ「やって来る」んだろう?
というのが、この記事の問いでした。
なぜ私が「思念体」のはなしを最初にしたのかと言うと、「意のままにならない他者」を追放した生に、「まねび」はあるんだろうか、ということが問いたかったからです。
私は、先の記事で上柿さんとは異なる道を行くと書きましたが、私にとっては「「仮に〈自己完結社会〉の進行が止められないとしたら、そこで哲学や、人文科学に何ができるのか」」よりも、「〈有限の生〉とともに生きる」というテーマ方が重要だ、というただそれだけのことです。
正直に言うと、私も〈自己完結社会〉の進行自体は「止められない」と思っているのですが、とは言え、現時点で〈社会〉全体を隈なく覆っているとまでは思っていません(資本主義社会が、真の意味で世界を〈貫徹〉するとすれば、この世のすべての贈り物は追放されるはずですが、事実上の〈交換〉になるような圧こそあれ、今でも得にならない贈り物は残っています)。
私はあくまでも、「〈有限の生〉とともに生き」たいと思っているし、他の人がそうであるべきかまでは知りませんが、少なくとも私自身はそう生きるべきだと思っておりますので、この選択自体は単なる私の生に対する〈好み〉でしかなく、その点で上柿さんの探究テーマとの間に優劣はありません。

ただし、〈意のままになる生〉には学びが想定できない、ということは〈確信〉しています。
そのように私が考える理由は、それほど難しいものではありません。
〈意のままになる生〉、言いかえれば〈無限の生〉は、何でも包摂し得る構えでありながら、包摂し得ないものは追放することで処理するからです。
この思考のスタイルであれば、葛藤や反省は生じず、それ故に〈快適〉です。
したがって、月並みなことを言えば、ある人のなかで自明になっている積み上げ式の学びは進むが、その学びの〈突破口〉はついに生じない、ということになります。
もしこのような学びを基本とすると、積み上げ式の学びが精確であるかを評価できれば、それでよいという話になります。
T.クーンという人が、元々は自然科学の歴史の書き方の問題ですが、通常科学/パラダイムシフトという言葉で語っていることは、このような問題に繋がります(ただし、クーンは「パラダイム」という語の曖昧さに関する指摘を受けて、この語を使わなくなりますが、すでに広まってしまった「パラダイム」でしか、一般に知られていないのは、皮肉なことです)。
つまり、通常科学では説明しきれないね、という問題が出てきたときに、今までとは異なる説明の仕方がやって来るということです。
そして、残念ながら、その説明は大抵、順調には受け容れられません。

というわけで、
>「まねび(真似)=模倣による変化」っていつ「やって来る」んだろう?
まではたどり着けませんでした。おまけに、回収しきれていない伏線を張ってしまいました。ごめんなさい…。
まあ、こういう日もあります。
そもそも、いつ「やって来る」か、私の側で分かり切っていることは、ここで書くべき話題ではありません。
ただ、今日までの話がムダだったというわけではありません。
>積み上げ式の学びはしないより、した方がよい。語れる道具が増えるから。ただし、いつかその積み上げ式の学びでは歯が立たない問題に出会うし、そのときにその学びを手放す限りにおいて。
という説明にはなったのではないか、と思うからです。
というわけで、明日をお楽しみに(本当に「やって来る」んだろうか?)。

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