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【書籍紹介/海外文学】スティーヴン・キングが授ける創作手法

noteを始めてから、ここで創作活動されている方が意外と多くて驚きました。それも、例えば「エブリスタ」や「小説家になろう」といったプラットフォームよりも、ハードで純文学に近い作品を創作されている方を多くお見受けします。なんかブログや近況報告に交じってひっそりと創作小説があるの、ちょっといいですよね。好きです。

私もゆくゆくはそんな風に短編や連載をnoteに載せてみたいのですが、まだ修行中というか、完全にジャンル小説でいっていいのか、いくとしたらSFか、時代小説か……みたいな段階ですでに迷っていて、道のりは遠そうです。

欲を言えば暗喩を多用したハイコンテクストな(読む人が読めば分かる、みたいな)文章にあこがれるのですが、一方でコーマック・マッカーシーみたいな、畳み掛けるような臨場感あふれる文体も大好きだし、多分こっちの方が読者の食いつきも良いのだろうなと思ったり。
そんな中、古本市でこんな本を見つけました。

スティーヴン・キング
『小説作法』

(一時的にnoteにAmazonのリンクが埋め込めなくなっているみたいなので「日本の古本屋」のリンクを貼ってます)

抜群のリーダビリティを誇る多作の大作家スティーヴン・キングが、小説の書き方を教えてくれるハウツー本を出してたのです。しかも古本でわずか500円、即決でした。
読んでみるとこれがまた、ハウツー本にも関わらずスイスイ読めて結構面白い。特に前半の、キングの小説家としての半生をモンタージュした部分が最高に笑えて楽しい読書体験でした。
今日はこの本の中から、自分の創作に活かせそう!と思ったことをメモしておく気持ちで紹介していきたいと思います。
本著のインデックスからは多少逸脱して、私個人で栞を挟んだりマーカーを引いたりする感覚で紹介しますので、キングの作品として内容を知りたいんだという方は本著に当たられることをお勧めします。


鉄則その1 副詞を使うな

例として挙がっていたのは次の文章。

「そこへ置いて!」彼女は叫んだ。
「返してくれよ」彼は泣きついた。「俺のだろ」
「冗談じゃないわ、ジキル」アタースンは言った。

キング『小説作法』p.142

これに副詞を付け足すと、以下のようになる。

「そこへ置いて!」彼女は居丈高に叫んだ。
「返してくれよ」彼は卑屈に泣きついた。「俺のだろ」
「冗談じゃないわ、ジキル」アタースンは蔑むように言った。

キング『小説作法』p.142-3

確かに、元の文より何となく歯切れが悪いし、勢い良さや臨場感が失われている気がします。
キングは、副詞をタンポポに例えています(本当です)。可愛いのが数本咲いてるうちに引き抜かなければ、やがて庭中がタンポポの群生に制圧されてしまう。同じように、ちょっと気を抜くと余計な副詞がすぐに本文を覆い尽くして台無しにしてしまう、小説というのはそういうものなのだと。
例文でも、副詞「居丈高に」「卑屈に」「蔑むように」がなくても発言内容からだいたいの雰囲気が伝わります(「蔑むように」だけまだ許せる……とキングは言っています)。こういった、言わなくても伝わる雰囲気まで副詞によって補足されると少しくどく感じます。キングはこういう押しつけがましさが大嫌いみたいで、本著では副詞に対する罵詈雑言が止まりません。

特に副詞が乱用されがちなのは、登場人物が発言した後の「〜と言った」のバリエーションを出す為ではないでしょうか。これは私も創作する上での悩みごとの一つです。複数人が矢継ぎ早に会話する際は特に、キリがいいところで「〜と〇〇は言った」と入れなければ誰が喋ってるか分からなくなる。それに「」ばかり続くのも何となく嫌だから地の文を挟みたい。でも「〜と言った」を乱用しすぎると稚拙な感じがする。

キングはこの問題について、堂々と「〜と言った」を使え、といいます。「〜と言った」が一番無難である。副詞に頼って人物を描写しようとしたり文章を整えようとしていると、だいたい陳腐な文章に落ち着いてしまうから、どうせ陳腐な慣用句に汚染されるなら、「〜と言った」を乱用する方がずっといい、ということだそうです。

読者は登場人物の人物像を、副詞からではなく容姿や身だしなみ、行動や決断、発言の内容といった、現実に立ち現れてくる外見-現象を通じてより深く理解する。私も日々読書していて本当にその通りだなと感じます。安易に心の中をひけらかすような、安っぽい副詞に頼るのは絶対ダメだと勉強になりました。
とはいってもキング自身、副詞を忌み嫌いながら、時には自分でも過ちを犯すことがあると言っているので、時には悪魔と契約する必要もあるのかもしれません。


鉄則その2 情況の変化こそが小説の肝となる

これは個人的に最も染みた格言でした。
純文学っぽいのを書きたくて、細部の風景描写や人物の心情をこれでもかというくらい細かく書いたり……
時代小説を描きたくて、時代考証を気取っていろんな歴史的背景の蘊蓄を並べ立てたり……
そういう事ばかりしていて、肝心の話が進まず完結できない…みたいなことばかりやらかしてきました。
キングはプロットを書かない作家として有名ですが、それでも情況の進展ーー例えばアル中の作家が自殺しようとして生還する、タイムスリップした先の高校に就職する等――が小説全体を牽引しています。そしてその変化していく状況のなかに登場人物を置いてみてどう動くかをシミュレートすることで、物語は発展していくというのです。

過去どうだったかよりも、これから何が起こるのかの方が興味がある……ということも言っていますが、これも読者としては私も同感です。それなのにいざ自分で書き始めると、これまでの歴史だとか登場人物の過去だとかに力が入ってしまいます。
それは多分、書き手は書き始める時点で既に登場人物に愛着を感じていたり、調べ物をする過程でその時代に興味・関心がわき始めているからだと思います。でもページを開いて初めて出会った人の過去話なんて、マジでどうでもいいですよ。初対面の人間に突然青春時代のこと語られても困まるのと一緒です。その人に興味が湧いて初めて、話を聞けるんです。何が読者をひきつけるのかをもっと客観視しなければと思いました。


鉄則その3 第二稿=初稿-10%を死守せよ

キング少年が自分で書いた創作物を雑誌に投稿しまくり、却下票を送り返されてまくっていた時、とある雑誌の編集者から「第二稿=初稿-10%」という公式を教えてもらい、これを意識すると採用率が高まった、というエピソードを紹介していました。
これは小説の文字数のことで、まず初稿を書き上げたら、推敲を経て修正される第二稿は、初稿よりも文字数が減らなくてはならない。それも-10%という結構思い切ったサイズダウンが重要だというのです。

そもそも初稿のあと推敲する過程で、私はどんどん文字数が増えていくタイプだし、"推敲"ってそんなものだと思っていたので驚きでした。でも考えてみれば、どんなにストイックに書いたとしても冗長な部分・蛇足な部分は必ずあるし、-10%というのは何の根拠もない数字というわけではなさそうです。

この時、鉄則その1とその2が生きてきます。
まず副詞を思いっきり削る。「気だるげに呟いた」「美味しそうに頬張った」「妖しく笑った」などなど。そのあと、情況の進展と関係ない情景描写や過去の出来事、不必要な心情描写をゴリッと削る。するとこれでだいたい-10%くらいになる……ということみたいです。
自分で上手いこと言えたなと自負する言い回しも、客観的に見れば不要なことも多い。そういう言い回しを残してしまうと、読者は鼻白む。だから思い切って消去せよ。これも、自分が読者の側に立ってみたら「確かに!」となるんですよね。

勇気を持って初稿を削る。3万字の小説なら3000字を削る。未練を捨てて削った後に残ったものこそ本物……なのかもしれません。


鉄則その4 シンボリズムは第二稿で考える

特に優れた創作物には、その作品の先行きや主人公の運命を象徴するようなシンボルが登場します。また物語の展開を予感させるフラグとは別に、その作家が好んで使うモチーフみたいなものもあります。ボルヘスの鏡はまさにそういうものだし、ガルシア=マルケスの「マコンド村」もそうかもしれません。
物語の展開だけを楽しむならこういったシンボルは必要ないかもしれませんが、カレーに入れるスパイスみたいなものでシンボルを見出すと途端に世界の解像度が上がったり、作家へのシンパシーを感じたり、その才能に敬意を持ったりするのです。
また創作者にとってもシンボルを設定する作業は楽しいはずです。物語全体を俯瞰して、それを特定の事物に凝縮させ、読者が気付いてくれるかワクワクしながら忍ばせるあの快感。私事ですが私が一番好きな工程がこれです。

だけどキング自身は必ずしもシンボルが必要とは思っていないようで、最悪なくても構わないと言ってます。シンボルなんかより、情況の進展の方がよほど大事。シンボルだけあったって本末転倒というわけです。
とはいえシンボルがもたらす効果も認めていて、本著の巻末に事例として紹介している自作小説の抜粋では、登場人物に着せる服装でその人物の人となりを連想させる技も使っています。

このシンボルを作品に付与する作業は第二稿でやるべし。
初稿はとにかくストーリーラインを描き上げる。それを引出の奥にしまっておいて、数か月後に取り出して推敲を始める。このとき作品と自分との距離がちょうどよくなり、ある程度客観的に作品を読めるようになる。その時に、何が適切なシンボルか見えてきやすい、ということのようです。
シンボルを登場させるのは本当に楽しいので初稿でやっていまいがちなのですが、あくまでストーリーを描き完結させることが初稿の第一目標なのだということです。頭が痛い……。


以上が、『小説作法』を読んで特に刺さった鉄則でした。
ただし読んでいて常に感じたことですが、キングは大衆小説を意識して論じていて、ジャンルが違えばーー例えばじっくり腰を落ち着けて読む純文学とかーー書き方もきっと異なるだろうと思うのです。
そもそも書き方の正解なんてないし、『小説作法』に従うことで殺される個性もあるかもしれない。クリエイティブ・ライティングを学んだ作家が全員売れてるわけでは全然ないのと同じように、常に通用する絶対法則なんて存在しないと思うのです。
たとえばコーマック・マッカーシーのあの独特の文体がクリエイティブ・ライティングによって生まれるとは到底思えません。

とはいえ普通のハウツー本にはあんまり書いていないような実学的な内容もあって、自分の筆致を振り返って気付かされることもありました。そうやって読むのが多分正解なんでしょう。

ちなみに巻末に、創作を志ざす読者に向けたオススメ作品がズラーーーッと4ページにわたって列挙されており、知らない作品も多いのですが、知ってる作品をざっとみただけでも「確かにこれめっちゃ面白いもんなー!」となるものばかりでした。ということは、同じレベルで面白い作品がまだまだたくさん存在しているということで、創作意欲とは別に読書意欲の方も大いに喚起されました。

ということでまだしばらくはインプットに没頭することになりそうです。


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