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2024年に読んだ文学作品ベスト10(長篇ver)

勝手に年末企画第三弾です。
今年に入って海外文学沼にどっぷり浸かった私。この第三弾 長編verが一番力入ってます。にわか海外文学好きの名にかけて(?)、本気で選びました。読んでいただけると嬉しいです。

2024年、今年読んだ長編文学作品ベスト10。
古典的な作品もありますが、新旧関係なく、とにかく面白かった作品を上から10作品を選んでみました。



ローラン・ビネ『HHhH(プラハ、1942年)』

高橋啓訳(東京創元社 海外文学ライブラリー)

歴史に誠実に向き合い、「類人猿作戦」の最初から最後までを余すところなく正確に記そうとするあまり、苦悶する著者自身が作中に登場、「まだこのシーン書きたくない」といった心の声まで全部地の文に入れてくる、全く新しい形の歴史小説でした。

限りなくノンフィクションに近いフィクションだというのも肝で、つまりこの作品のテーマは歴史小説の在り方を問い直す、ということにあるのだと思います。
すでに死んでしまっている人の、記録に残っていない空白部分を、好き勝手に創作したり編集したりするのって、ある意味それも暴力なのではないか?だって、相手はもうそれに異議申し立てすることができないのだから。
こうした非対称性に敏感であることが、この作品の特徴でもあり、惹かれるところでもあります。

もう一つのテーマは、歴史小説で「誰」を描くか?ということではないでしょうか。時の権力者や偉人だけが歴史を作ってるわけではなく、そこには名前の残らない市井の人々の決死の努力や忍耐、献身や自己犠牲があったはず。
むしろそうした人々の存在がなければ、歴史はこんな風になっていなかった筈なんです。
名前を残さなかった人々の視点に立って歴史小説を書くことができれば、それはとても意味があることではないか。

たとえそこに身勝手な創作や脚色や編集が入ったとしても(というか記録が無いからそうせざるを得ないのだけど)、そうするだけの価値があるのではないか。
そんなところにこの作品の狙いがあるのだとおもいます。

過去にnoteでも紹介していますので、よろしければご覧ください。


ハン・ガン『別れを告げない』

斎藤真理子訳(白水社 エクス・リブリス)

2024年ノーベル文学賞をハン・ガンが受賞し、久々に良いニュースに触れられました。多くの人が望んでいた受賞だったと思います。
この作家が賞を取ったということは、この作家が描いた多くの痛ましい事件にも再びライトが当てられるということ。被団協のノーベル平和賞受賞と合わせて、世界は東アジアの歴史に注目し始めたのですね。感慨深いです。

奇しくも今月、韓国ではユン大統領が戒厳令を発令し、市民が大規模な抗議行動を展開、わずか半日で戒厳令撤回に追い込むという、まさに映画のような出来事がありました。
ちょうどこの事件の直前に、新潟で開催された映画「タクシー運転手」上映と、斎藤真理子先生によるハン・ガンについての講演会に参加していたので、まさにそこで知った世界が再び繰り返されたのだ!と大変驚きました。

ハン・ガン作品は全部が心に重く圧し掛かかり、非常に体力を消耗するものが多いのですが、自国のタブーをここまで痛烈に、弱点を全てむき出しにして、痛々しく描いてみせた作品がベストセラーになるのは凄いですよね。韓国社会の文学的・政治的な成熟度合いを感じさせます。

この作品の凄いところ。
『HHhH』を読んでいる時は思い出さなかったのに、『別れを告げない』を読んでいる時に、学生時代アウシュビッツに行ったときのことを思い出しました。
暗い展示室の片側が全部ガラス張りになっていて、膨大な量の義足が山積みになっていました。
次の部屋には眼鏡が、次の部屋にはカバンが、次の部屋には靴が同じように山と積み上がっていました。
それを見て呆然としていたとき、自分自身の存在というか、命がものすごく違って感じられた。端的に言うと、自分のことが「人間」だと思えなくなってきたんです。大事にしてきたし、大事にされてきた自分というものが、その保護膜を失って、むき出しの状態になった感じでした。
意識がガラスの向こうにフワ〜と入っていって、靴とか

この本は、その時の感覚にとても近いです。


ミン・ジン・リー『パチンコ』上下

池田真紀子訳(文藝春秋)

在日コリアン4世代にわたる物語。第一世代が釜山から大阪へ渡ってきて、子孫をつなぎ、多くの苦難を何とか乗り越えていく様子を鳥瞰し、移民と呼ばれる人たちがどういう存在なのか、どういう生活を送り、どうやって日銭を稼ぎ、何に希望を託して生きてきたのかがリアルに迫ってくる作品でした。
基本的にいつまでたっても生活は貧しくて、しかも社会が不安定化すると真っ先にその煽りを受け、さらに国家からの保証はほとんど皆無といった中で、彼女らの頼みの綱は勤勉さと社会関係資本しかない。
歯を食いしばって激務に耐え続け、人的な繋がりを広げて支え合っていくしか道はないのです。
ですが、それでもこの家族の場合はかなり恵まれていると言わざるを得なくて、彼女らの背後には、物語れるほど人生を雄飛させることが出来なかった多くの在日コリアンの存在があるのが分かります。

またこの作品では、在日コリアンの視点から韓国併合、満州事変、太平洋戦争と敗戦、そして朝鮮戦争をまなざします。日本社会の大きな変化を、日本人ではない客観的な視点から描き出す……すると、日本社会がまるで外国のように思えてくるのです。しかし実際は私たちは日本社会のマジョリティであり、主人公たちに降りかかる災厄の主犯格側の人間である。このことに思い至ったときに大きなカタルシスがあります。

間テキスト性に目を向けると、この作品と前述のハン・ガン『別れを告げない』は密接な関係にあることが分かります。『別れを告げない』で四・三事件を知った読者にとっては、『パチンコ』に登場する在日コリアンになぜ済州島出身が多いのか、そして、済州島の本島ではなく離島出身であることが主人公たちの人生にどんな影響を与えたかということに想像力が働きます。
併せて読むと非常に示唆深いと思います。

『パチンコ』も過去にnoteで紹介しています。よろしければどうぞ。


マーガレット・アトウッド『請願』

鴻巣友希子訳(ハヤカワepi文庫)

前作『侍女の物語』はSF作品ベスト10の方で挙げたので、ここでは『請願』をランクインさせましたが、続き物ですので、できればセットで読んでほしい作品です。
SF脳でこの作品を読むなら、全体主義国家ギレアデがどのような経緯で生まれたのか。どのような悪魔的システムで運営されているのか。そしてどのように崩壊の一途をたどるのか……架空の歴史をシミュレーションするような感覚で楽しめると思います。
特に統治システムの部分は、オルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』と比較しながら、「よくできたシステムだなあ」とか「ここは弱点だな」とか考えながら読める、ディストピアSFの傑作です。

一方これを文学的に読むと、抑圧的な父権主義国家の胸糞悪くなる描写と、その中で懸命に生きる少女たちの率直なまなざしの対比に圧倒されます。
考えてみれば、この作品は様々なもののコントラストが非常に鮮やかに描かれています。
恐怖と不信に支配されたモノクロの世界に映える侍女の赤いローブ……という色彩的な対比、男性(所有者)と女性(所有物)の対比、それに「自由の国アメリカ」の崩壊後に誕生した独裁主義国家ギレアデ……という政治思想的対比。

個人の自由が徹底的に抑え込まれた世界と今のアメリカとはあまりにかけ離れているかもしれませんが、読み進めていくと決して荒唐無稽な作品とは思えない、非常に説得力のある世界でもあるのです。
その不条理は少しずつ進展する。少しずつ女性が生きづらい世界に変えられていく。そして気づいた時には……。
そして完成してしまった無欠の全体主義国家に対して、内側から国を崩壊させるため男性の側からは見えない共同戦線を張って戦う女性たちの熱い闘志に感情を動かされます。

この作品を現実世界に接続して読み解くことは決して不自然ではないと思ったし、今年のアメリカ大統領選でアトウッドがSNSでこの作品を使ってトランプ候補と政策を批判していたのも納得できます。
『請願』の世界は現実と地続きだと、読み終わった今はより強く感じています。


ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』

若島正訳(新潮文庫)

20世紀文学の巨匠、ナボコフの言わずと知れた代表作なので、これをランクインさせることは逆の意味で迷いました。わざわざここで紹介しなくても、非常に優れた文学評論が山のように存在する作品ですから。
でもこの作品を無視して今年の読書生活を語ることはどうしてもできませんでした。

「ロリコン」の語源になった作品だという知識は持っていましたが、それが原因でずっと手が伸びない作品でもありました。そういう人も多いかと思います。ただ、文学系のポッドキャスト番組でナボコフの他の作品が紹介されており、それが非常に面白かったので思い切って手に取った次第です。

結果、本当に読んでよかった。ストーリーラインは予想通り、ペドフィリアの中年男性と少女の禁忌の物語なのですが、膨大な数の注釈が付けられており、大変な数の文学作品や戯曲、その他芸術作品から引用されたり比喩として使われていることが分かります。それらをひとつひとつ了解していくだけでも大変な労力を要しますが、これが非常に面白かった。

それだけではありません。この小説には多くの属性が付与されているのです。

この作品は、思わず笑っちゃうようなユーモア満載のコメディ小説でもあります。主人公のハンバート・ハンバート(名前からして変)が、教養あるユーモラスな毒舌家という設定なばっかりに、自分の不運を嘆く口調や、人への悪口もいちいち巧妙で面白い。前半の、自分の性癖を隠しながらロリータと接するさまがあまりに滑稽で、読んでる間ずっとニヤニヤしたり吹き出したりすることになります。
ひとりの身勝手な中年男性のせいで、少女の心と体が破壊されていく残忍な物語なのに、なんで私笑ってるんだ?とだんだん不安になってきます。

さらにオーソドックスなアメリカ小説でもあります。ナボコフはソ連の社会主義革命を契機にドイツに亡命し、ナチス台頭を逃れてさらにアメリカに亡命した作家であり、『ロリータ』はアメリカの小説として英語で執筆したものだそうです。
「グレート・アメリカン・ノベルス」というらしいですが、アメリカの文壇では大長編小説が好まれる傾向にあるそうです。『ロリータ』も長い作品です。
さらに、ロードムービーでもあります。ロリータとハンバートの逃避行は、自動車を使い、モーテルを転々としながらアメリカを横断していくもので、ここにも「アメリカらしさ」が感じられます。

そしてここに小児性愛者の内面が克明に、痛々しいほど克明に描かれていくのです。

いろんな風味が合わさった複雑な味わいーーたくさんのスパイスやハーブ、甘味・酸味などが混然一体となった東南アジアのスープみたいな手触りがこの作品にはあり、それがぐいぐい読書を引っ張ってくれました。

正直、一回読んだだけでは「読んだ」というのもはばかられるほど濃密な作品で、再読必須です。私はもう少し時間をあけて再チャレンジしたいと思います。


サマセット・モーム『月と六ペンス』

行方昭夫(岩波文庫)

ある一人の人間が芸術に取りつかれ、家族とそれまでの安定した生活を捨てて、ひたすら絵画の道に突き進んでいく物語。
なんですが、夢をナイーブに追いかける男のロマン……とか生優しいものではなく、この男は周りの人間を思いっきり巻き込んで破滅に突き進んでいくのです。

まず、芸術への目覚めがあまりにも突然なので、妻は全く訳が分からず錯乱します。ここは本当にかわいそう。

また、この奇妙な熱意と反社会的な性格の男の描く不可思議な絵画に魅了された男は、彼を保護したばっかりに妻まで奪われて生活を破壊されてしまいます。

やがて友人達を地獄に突き落とした男は、ひとりタヒチに渡り、密林の奥に姿を消し、自給自足の生活に入るのです。

「なんだこいつ?」というイライラと、なぜ芸術ごときでこれほど人間性が損なわれてしまったんだろう?という疑問とがずっと付き纏い、最後のニルヴァーナでは「これも一つの偉大な人生だったのかもしれない」と妙な納得感がありました。
ひとりの奇妙な男の、悲しくも透徹した一生を傍で見届ける。気がつくと、ちょっとそいつが好きになったりしている。そんな充実した読後感でした。


コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

黒原敏行訳(ハヤカワepi文庫)

いろいろな記事で言及していますが、コーマック・マッカーシーの作品では今のところこれが一番好きです。ノワール小説の旗手ですから、だいたいどんな作品も冷酷な現実に打ちのめされるのですが、この作品だけは読後が温かでした。
父親とおさない息子が、核戦争後の世界を南に向けて放浪し、道中飢餓に苦しんだり様々な危険に直面するという、典型的なポストアポカリプト小説です。特に暴力の描写は、苦手な人が読むと吐き気をもよおすかもしれないレベルなのですが、よくある「グロで読者を惹きつけよう」という意図はそれほど感じられず、こういう世界なら、まあこうなってもおかしくないな、という納得感があります。

父親はこの世紀末の残酷な現実から、息子の子供らしい感性を必死に守ろうと、うたを歌ったり物語を語り聞かせたり、がれきの中からおもちゃを見つけてきたりして、厳しい中にも温かな親子の交流があるのですが、
やがて飢えが親子を蝕み、息子はこの世界の残酷な法則ーー食べるためには奪わなくてはならないーーに気づき始めるのです。

飢えて動けない人を放っておけず、自分も飢えているのに、わずかな食べ物を分けようとする息子の善意と、
たとえ相手を殺してでも息子を守り通すと固く誓った父親の愛情。
この二つのせめぎあいには涙が出そうになりました。

この作品を、著者は息子に宛てて書いたそうですが、息子への深い深い無償の愛があふれ出す、圧倒的な読書体験でした。
これを超える作品は、今後もなかなか出会えないような気がしています。


ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

千野栄一訳(新潮文庫)

主たる登場人物が4人いて、それぞれの心情が細かく描写されていきます。
何百人もの女と寝る、絶倫の外科医トマーシュ。彼を頼って身を寄せる一途な女性テレザ。これまた妻子持ちの男を寝取りまくる奔放な女性サビナ。そして生真面目だけどサビナと愛人関係を結んでしまった大学教授のフランツ。

彼ら一人一人が本当に実在感があるようにリアルに描かれているのですが、一方で、ほとんどの人間をこの4人のタイプのどれかに分類できてしまうんじゃないかと思うほど典型的な人物像でもあります。
この複雑な登場人物達こそ、この作品の魅力だと思っています。

誰もが悲しみを背負って生きている。だけどそれぞれが抱えるものの"重さ"というものは違っていて、4人の"それ"は特に重い。
押しつぶされそうな悲しみの重圧に耐えて生きる彼らには、主権を失った祖国チェコを取り戻す社会運動すら、ただの糾弾の応酬であり「耐えられないほど軽いもの」のように思えてしまう。
この感じが衝撃でした。

それから、作品冒頭の部分。出来事は繰り返すほどに重さを増していく。ロベスピエールが大勢を断頭台送りにした事実も、それがたった1回しか起こらなかったからロマンチックに思い出されたり、ノスタルジーをもって語られるのだ。もしロベスピエールが何度も何度もよみがえってくるのだとしたら、こんな風には語れない筈だ。そんな事が書かれるのです。
この部分は日本人にはピンと来ないですが、例えば「織田信長」がある種の憧れやロマンを交えた文脈で語られるのと似ているなと思います。彼が何度もよみがえり、何度も日本全土を戦禍に巻き込むとしたら、彼に対する私たちの印象もだいぶ違ったものになるはず。

反復と重さ。この漠然とした、形而上的な概念を物語に落とし込むという神技。読んでる時にふと文章の背後にあるものに気付いてゾクッとする……そんな傑作です。


ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』

鼓直訳(新潮文庫)

「これ、コメディ小説なんです」って言ってもあんまり信じてくれないのですが、コメディですよね!?世界文学のカノンだとか、なにやら高尚な作品のように語られますが、つまりツッコミのいないコント、ボケ倒しの世界なんです。じわじわ笑えてくるし、笑えばいいと思うのです。

この作品はおよそ100年にわたってブエンディア家という一族の興隆と没落を描いた大河ドラマ。
また、ブエンディア家はマコンドという村を開拓した一族でもあるので、翻ってこれはマコンド村の100年の栄枯盛衰を描いたサーガでもあります。

開拓当初のマコンドは、ヨーロッパでいう中世の世界観。それはマコンドが外界と隔絶され文明以前の状態にあるからなんです。つまりマコンドは世界の文明水準からかけ離れている。
ここから次第に外界との交流が生まれ、文明化され、テクノロジーがもたらされていきます。
こうした非常に激しい文明化の荒波の中においても、マコンドの人々、そしてブエンディアの人々の感覚はやはり中世を引き摺っていて、
それが「マジック・リアリズム」という手法によって表現されているのです。
「ツッコミのいないコント」というのはまさにこれを指していて、たとえば人が風に吹き飛ばされたり、土を食べる少女がいたり、普通に幽霊が出てきて会話したり、突然息子が17人登場したり、血がひとりでに流れ出たり……とにかく不思議な事が起こるのに、誰1人それを不思議がったり可笑しさを指摘しないのです。
そういうものだとして、了解しているのです。

未だに呪術的世界に生きる人々の世界観を表現するためにこうした書き方をしているのだと思います。そしてこれこそがこの本の魅力なのです。


マリオ・バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』

野谷文昭訳(河出文庫)

バルガス=リョサは『密林の語り部』以来2作品目。想像とは全然違って、スラップスティックな作品でした。

ガルシア=マルケスと比較すると、バルガス=リョサは決して読者を置いてけぼりにすることなく、親切設計で、味付け程度にマジック・リアリズムを楽しめるので、初心者には読みやすい作家かもしれません。
この作品も、ツッコミがいないのは同様ですが、「なんだそりゃ」となるようなことはほとんどなくて、普通にストーリーを楽しめます。

視点人物の「ぼく」は、自分の叔母であるフリアに恋をするのですが、彼女は自分の倍くらい年上。親戚(めっちゃたくさんいる)にとっては大スキャンダルになるので、なんとか隠しながら相瀬を重ねます。
それと並行して、「ぼく」がつとめるラジオ局に新たに雇われた天才シナリオライターのカマーチョは、続々と大ヒットラジオドラマを打ち出していくのですが、だんだん頭がおかしくなり始めて……。
このダブルプロットで話は展開し、やがてフリアと結婚したい、でもカマーチョの横暴を止めなければならない、そうこうしている間に親戚にも嗅ぎつけられ、ラジオドラマはどんどん混とんとして……と目の回るようなドタバタ劇になっていきます。後半はほとんどずっとエンタメ的な面白さが持続して、この先いったいどうなってしまうのか、ずっとハラハラドキドキのままで完走しました。

最後に、この文庫本の解説を斉藤壮馬という方が書いているのですが、私最初この人がどなたかピンときていなくて、日本の作家さんかなあと思っていたら、なんと声優の斉藤壮馬でした。この方、早稲田大学文学部(ワセブン)出身なのですね。すごくブッキッシュな文章で、しかも野谷文昭先生の講義を受けたことがあるそうで、まあほんと羨ましい限り。ボルヘスもお好きだそうで、ちょっとイメージが変わりました。ファンになってしまうかも。


以上、2024年に読んだ文学作品ベスト10(長編ver)でした。なんとかギリギリ間に合いました……。
2024年は私にとってのnote元年でもあり、人生の岐路に立った年でもありました。実はいまだに岐路に立ったまま、どちらの道にも踏み出せていませんが、2025年は思い切って一歩踏み出そうと思っています。
今は宙ぶらりんで苦しいですが、この苦しみがいつか糧になることを祈って。

いま同じように苦しんでいる人がいたら、とにかく今は心を休めて、次のための精力を養いましょうね。来年はいい年になればいいな。本当に。
そして、よりたくさんの素敵な文学作品と出会えるといいな。
文学作品と、それを愛好する人々との新たな出会いがあればいいな。

それでは、良いお年をお迎えください。


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