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墨色|黒の屏風

墨色。これは僕の心の隅々まで滲み渡っている色彩である。僕の名前が黒川だからではない。墨色が、確かではないのだが、幼年時代の様々な記憶と一つになって僕の心象の原像となっているらしいのだ。

僕が少年時代を過ごした愛知県蟹江町にあった父の実家は茅葺屋根の薄暗い農家のつくりだった。農家ではないのだがそのあたりのすべての家はこんな家であり、村民がお互いに助け合いながら茅葺屋根の工事や補修を助け合っていた。室内では天井は一部だけに貼ってある。畳の部屋は竿縁天井があるのなのだが、土間から入った最初の部屋、居間とでもいうのだろうか、そこには囲炉裏があり天井は茅葺屋根の裏がそのままになっている。下地となった縄で結んだ竹や一面の茅が囲炉裏の煤をかぶってくろぐろとしていた。時々、ボタンっと音をだしてムカデが落ちてきたりする。そこに寝転ぶときの風景が深い闇の色をしていた。墨色とは闇であり色ではないのだ。

少年時代には黒川家が伝統的に管理していた真水の川があって、農業用水にもなったいたのだが、そこでいつも泳いだり魚を釣っていた。学校から家に戻ると、鞄を薄暗い部屋の奥に放りだして一目散に川に走ったものである。途中で庭で茄子やトマトをもぎり、それをもって橋の欄干から飛び込む。川の中でそれを食べるのだ。
鮒やボラ、エビなどをよく釣って遊んでもいた。そこへたどり着くにはトンネルのようになった木々の、湿気た道を足の裏に不快な感覚を感じながら通り抜けて行かなくてはならない。あの暗がりとその先の明るさが僕の墨色の背後にある。

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床の間に掛かっている掛け軸の書の墨の黒さはこれも黒ではない。墨色は墨色なのだ。書道で指を汚したあの墨色は僕の心に中に理由なく染み付いている。太平洋戦争の始まりの年に生まれて敗戦を小学生時代に経験して、この闇の黒や墨の黒を身体中の心の隅々まで染み込ませた僕が戦後、建築家になって知ったのは真っ白な色だった。
近代建築は輝くような白だったし、イタリアのデザイン雑誌DOMUSに掲載される憧れのデザインは白かった。
僕の中で何かが叫んでいた。白い輝きに心を奪われながら心のそこには幼年時代からの墨色が沈殿していた。僕にとって墨色は近代への反抗の色だった。

その墨色が爆発的に現れたのがGOMシリーズだったのだろう。ゴムという柔らかい素材にカーボン(墨)を混ぜて、金型をつや消しに処理して整形すると墨色のインテリア小物ができた。周りの人たちは光を反射しない黒とステンレスの光が対立していて美しいというのだが僕には「墨のゴム」だけが心を捉えていた。

墨色の和紙をつくりたいとある時思った。この屏風は高岡の僕の設計した住宅のためにつくったので写真しか存在していない。
和紙と墨がここで一つになっている。黒い色ではなく、墨の香りと僕の記憶とが一つの世界をつくっている。また会いたい作品の一つである。

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《黒川 雅之》
愛知県名古屋市生まれの建築家・プロダクトデザイナー。
早稲田大学理工科大学院修士課程卒業、博士課程修了。
卒業後、黒川雅之建築設計事務所を設立。
建築設計から工業化建築、プロダクトデザイン、インテリアデザインと広い領域を総合的に考える立場を一貫してとり続け、現在は日本と中国を拠点に活動する。
日本のデザイン企業のリーダーが集う交流と研究の場 物学研究会 主宰。

〈主な受賞歴〉1976年インテリアデザイン協会賞。1979年GOMシリーズがニューヨーク近代美術館永久コレクションに選定。1986年毎日デザイン賞。他、グッドデザイン賞、IFFT賞など多数。

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タイトル写真:調査中

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