私が「優れた人間のフリ」をしていた理由…言いづらい不満を伝えることと自己受容の関係性。そして愛と幻想の話。
ハウルの動く城の連載はどうなった?というのは一旦置いといて笑、今日は「自己受容」の話を書きます。まあハウルというのはあくまで題材であり、やってる事は心理分析とか心理学的なことなのでだいたい同じではあります。このnoteアカウントはなんか、そっちに向かうみたいですね。笑
さて。
最近ちょっとしたことがあり、人と喧嘩というかまあ対話をしたことがあったのですが、誰かに対して自分の本音、特に「言いづらい不満」を言えるというのは、単に勇気があるとか気が強いということではないんだなと思った次第。(※これに関しては仕事上ではなくプライベートな人間関係の話として捉えてください^^)
本音を伝えることは「自己受容」をとても必要とする、大きく言えば「器」を問われることであるということ。
私は以前はそういう本音、特に不満というものをなかなか直接言うことができなくて。嫌な事があっても我慢してしまい、溜めに溜めて限界が来たときに全部まとめて爆発させるタイプでした。苦笑
でも当然それだと関係性そのものが壊れてしまうわけで。仮に相手が寛容で表面上は許してもらえたとしても、以前と同じ関係性は戻ってこなかったりする。そんな失敗を何度もしてきて、これじゃあダメだなと思ってはいた。思っては。。。
ではなぜ分かってるのに出来なかったのか?というと、それはひとえに「自己受容」ができておらず、「器」が小さかったから。悔しいけど、そういうことだったんだと気付いてしまったのです。
不満や不快感をそのままぶつけるとか、あるいは我慢してしまうこと。それが悪いことだというつもりもなくて、意識しなければそうなってしまうのは人間当たり前のことだとも思うのです。思えば、子どもの時は親や先生が間に立ってくれたり、なんだかんだで教わったり考える機会のなかったことなのかも。
でも、関係性を大切にしたいがゆえに言いにくい不満を伝えたいならば、それなりの心得が必要だということ。相手には相手の人生で培ってきた価値観があるわけで、それを否定するのも違うし、かといって感情的に許容できないこともあるわけですよね。
もしも突発的に感情的に怒りをぶつけてしまったり、反論されたときに反射的に返してしまったら、望むゴールからは遠ざかってしまう。でも、自分の素直な感情を押さえつけてしまったら、それはそれで何かが歪んでいく。まあ、こんなの難しくて当たり前です。。。
ちょっと一旦少し具体的な話をするとね、
・そもそも何のためにこの話をしてるのか?
・どういうゴールを望んでいるのか?
・本当に分かってもらいたいことは何なのか?
・どうして分かってもらいたいのか?
なんかね、そういう言葉にすると多分少し気恥ずかしい類の「これらの答え」を、自分自身でちゃんと明文化しておくことはめちゃくちゃ大事だなって思います。
逆に、
・自分が相手より正しいかどうか
・自分のプライドを守れるかどうか
とかは意識的に捨てないといけないと思っていて。そんなもののために相手を否定した日にゃ、それこそ「私はなんて器の小さいヤツなんだ!」と自分を嫌いになってしまいそうだから。笑
で。まあ伝え方の具体的な方法っていうのはいろいろコツがあるとは思うし、私なりの考え方とかもあったりはするんだけど、今回はそこはちょっと置いておきます。
伝え方の技術以上に大切なのが、器。
・相手の価値観を受け入れるのは、器。
・素直であれるのも、器。
ということになるんだけど、器っていうのは自己受容によって育つものなんですよね。自己受容ができるというのは、例えば
・自分の不満な感情
・自分の不安な感情
・相手を大切に思う感情
・相手を失いたくない感情
とか、
・自分は間違うことがあること
・自分に至らない所があること
・自分は完璧ではないこと
・自分は大して優れた人間ではないということ
をまるっと認めるということ。
(もちろん良い部分もね!)
そしてそれはすなわち、
・自分が間違っていたとしても、許されていい
・相手が間違っていたとしても、許していい
・自分は完璧でなくても、受け入れられていい
・相手が完璧でなくても、受け入れていい
・自分は相手を見下す必要はないし、
・相手に見下される必要もない
というような「器」につながるわけです。
では自己受容ができていないとどうなるかというと、例えば
・自分の本当の感情を受容できていないので
・自分にも相手に対しても素直になれなくて
・主観的かつ自己防衛的に反応してしまい、
・思ってもいないようなことを口走り
・結果、望んでもいない決裂を生んでしまい
・あとあと自己嫌悪になり後悔する…
あるいは
・自分の感情に自信が持てていないので
・相手の感情を優先してしまい
・本当は納得していないのに納得したフリをして
・いい子ちゃんを演じてしまった結果、
・そういうキャラとして扱われるようになり
・そのうち苦しくなって自分から離れて
・私の何がいけなかったんだろうと悩む…
なんてことになったりします。うん、どっちもやったことあるー笑
なので、自己受容、超大事!なんです。
まあ一言で自己受容といっても、先ほど書いたように、私は「感情」に対する自己受容と「能力・容姿・特性」などに対する自己受容があると思ってるのね。どちらが得意不得意ってのは人によると思うのだけど、とりあえず色々な側面に対しての自己受容があると思ってもらえたらいいと思います。
案外ここらへんを素直に認めた瞬間に、楽になれることってあるんですよね。特に、私は
・自分は大して優れた人間ではない
と思えたことが、一番気が楽になった瞬間かなって思ってます。これは「能力が」という意味ではなく、シンプルに「人間性が」という意味です。つまり
・私は大して優れた人間性など持ち合わせておりません♡
と思えたら、めっちゃ気が楽になったということ。いやいやいや逆に今まで自分、何様やと思てたん?笑笑 てなった。
なんていうか
「これがこうだからそれは間違ってる!」
「一般的に見てそれはおかしいと思う!」
っていう不満のぶつけ方ってさ、
「優れた人間である私が指摘してあげているという体(てい)」なんだよね。一見正しくアドバイスをしている風なんだけど、自己受容のできてなさゆえに個人的な不満を一般化して、上から目線だったりマウンティングすることを目的化してしまっていたような気もするのです。(この言い方全てがそうだという意味ではなく、個人的な不満をアドバイスにすり替えて伝えてしまう場合の話ね!)
一方で
「私は感情的にイヤなの!」
って
「ただの私のワガママでも分かってほしいだけ」
じゃん。笑 まあ少なくとも優れた人間とはちっとも思ってもらえなさそうな言い方ではある。だから、プライドが邪魔をしてそうとは言えないってことが今まで沢山あったわけ。。。
でも、それでいいやー!(アホっぽくても)と思えたときに私は肩の荷が降りた気がするのです。いやむしろこっちの方が可愛げあるし、聞く気が起きるよね言われる側としては。
まあまだ癖で「優れた人間のフリ」をしてしまうきらいはあるのですが、えらそうに論破して勝ったところで関係性が悪くなるなんて、それこそ一番望まない結果ですからね。
それよりは「こいつワガママだなぁ」とか「アホだなぁ」とか「しょうもねぇやつだなぁ」と思われても、結果関係性がうまくいってるほうが私はいいなって。なんか優れた人間だとか、すごいとか頭いいとか思われることにあまり意味はないような気がしてきたのです。
…冒頭に書いた件に関して言うと、結果的には相手の器の大きさにも助けられ、話して良かったと思える対話になって率直に嬉しかったな。つーて言い方相当きつかったと思うからあれなんだけど。笑 まああくまでワガママだから許してって感じで。あまり本当の意味での本音というのを互いに語る機会がなかったように思うのだけど、少しは分かり合えたような気がしている。
でさ。
なんていうか、人との関わりって近くなればなるほど恐れみたいなものの影が濃くなるものだけれど、私は最近それは自分の生み出している幻想だと気付いて。
分かり合えないかも、という恐れも。
いつか離れていくかも、という恐れも。
「影そのもの」を見てしまうから濃くなっていくのだよね。
で、またその恐れに対してそうならないようにするのではなく、むしろ自分から離れたり関係性ごとブッ壊しに行ったりしてしまうのが人間だったりもするんだけど笑
でもそれって単なる防衛機制(自己防衛の反応)であり、その根拠には愛でしかないわけで。もちろんそれは自己愛、他者愛含めての大きな意味での愛ってことね。恐れという影の上には、必ず愛という光がある。その光のほうを見るのだって自由なんだよね。
傷付いた経験であれ、恐れであれ、今ここに無い幻想の影に振り回されるのが人間だとして。それでもいいのだけど、それでは生きづらいならば、幻想を1つずつ抱きしめていけばいいだけ。そうすると、驚くほどに美しいものしか残らないのです。
過去の癒しワークみたいなのも、自己心理分析も、「受けた傷や悪いところ」を見ることが目的になってしまうとただただ辛いんだけど、そうじゃなくて「美しいもの」を見に行くことを目的にしたら大して辛いことなんかないんだよ。まあいっとき辛くても、最後にはちゃんと報われるというか、あたたかい気持ちになれるもんなんだよね。
そのことに気付いてから私は狂ったように自己心理分析を始めたのだけど、そういうわけで私は実に楽しいんだよね。自分自身の中にある愛とか、美しい願いに沢山気付けるから。同時に、人からの愛にも沢山気付けるし、歪んだ愛や未熟な愛を許せるようにもなっていく。
そしてだんだんと自分の感情というものに素直に向き合えるようになって、いちいち分析と思わなくても自分の本心である言葉を聴けるようになる。し、本心がたとえ弱さであったとしても「ダメなことだ」とジャッジしなくなっていく。なぜか?それはもちろん弱さや恐れさえも愛に由来していると分かるから。
そしてそういう自分の中の愛を確かめることこそが、何者でもない丸裸の人間としての自信を生み出す源泉に確実になっていくのです。
だからたぶんこれからも私はこんなことをやって生きていくのだと思うし、こうして何らかの形で人にシェアしたいのだろうな。笑 というわけで、最後までお読み下さりありがとうございました。ではまた!