うさぎ、森を抜ける。
noteに書き落とした言葉は、人前にいる自分より、よっぽど自分らしいとおもってた。それは今まで誰にも言えないことだったから。
書くまでは辛い。でも一度白日に晒してしまえば、硬く握った手がふっと緩んだ。想いを手放した身軽さは、たまらなかった。書いた文字を何度も読み返せば、そうかそうかとまだ握ってしまう何かをそこに見つけた。そして昔の自分の苦さをこうして懐かしめる今が、嬉しいとおもった。
それを何回か繰り返すと、今度は、書きさえすれば消化する、そんな気になった。
さらには、言葉にならない想いはぜんぶ、物語になればいいと思うようになった。あの時やこの時が何かに生まれ変われば、あの経験に意味が与えられると自分を急かし、まだ未消化の匂いが残るそれらしきものを産んでみたりもした。
当然、そんな物語には救われなくて、どこにも向けられないフラストレーションは澱となって心に沈殿した。
どちらが先だったかな。書けなくなり、眠れなくなった。
悶々と時間だけが過ぎる夜は、眠れない理由を書きなぐり、中途半端な下書きをスマホの中に放り込む。
きっと寝足りないためだ、とは思った。でもそれだけでもない気がしていた。不眠は枝葉で、もっと根本の何かが想いの文字化を妨げていた。
もう文字のどこにも自分がいない。
書いた活字が白く消える抵抗に、敵わなかった。この言葉じゃ成仏しない。自分をなだめることに限界で眠れない。でもどう書いても言葉の色が取れない。もう物語どころじゃない。気持ちよくない。
今をなだめようと、仮初めのポジティブを発揮する悪習は、コップからちろちろと溢れていた。
錆びたパイプ椅子がぽつんとあるオンボロビルの一室で、ひとりで話したい。持ち主に残された埃臭い古いカーテン越しに、街灯の灯りが滲む。それでようやく周りが、ぼんやりと見える暗さの部屋で。
ここなら、話せる。毎晩そう安心して中央の椅子で独り言を始めるのに、どういうわけか、誰かいる。顔のない黒い聴衆が、ぞわりぞわりと闇先の壁から生まれ出た。影。それは無数のわたし。自分だったもの。全力で潰してきた気持ちたちが、文字を書き出すと、魑魅魍魎のように姿を現わした。
一様に傷を負った影たちに取り囲まれ、真上から睨め回される。まるで調書を書かされている気になってくる。間違えた文字は片っ端から白く消えた。でも書くことでしかわからないことがあるから、と意固地に座る。書いても書いても白いのに。
それでも、もう排泄しなけりゃ腹が膨れて仕方がないから。出せばたまらなく気持ちがいいはずだから。でもなぜ書いてるのに書いてないの。言葉にフィルターがかかる、色がつく。現実には、本当の気持ちをまだ見ようとしない自分がいて、書くのが苦しい。でも止めらない。いまは書くことに縋るしか、抜ける道が見えないから。
影はいつのまにか、そしていつも側にいた。過去の痛みを負ったままのわたしが、鼻息の当たる近さまで躙り寄る。その絡みつく視線に、ついに手が止まる。
彼らに、見られてしまったらもうダメだ。この文字も、駄目だった。
「うそをつくな」
瞬きさえせず見つめる目が、無言で刺さる。手に心臓に目に。
臨場感に満ちた影はあの時の全てを知っている。
ずっとあの空気を吸い続け、もう肺も気管支もボロボロな過去は言う。お前の言葉は到底信じられない、と。そして嗤う。お前にべったり塗られた色を、鏡で見せてやろうか。
耳の裏から爪の垢まで、心当たりのあるどこもかしこも調べられ、見抜かれる。こんなところにも塗り込まれているじゃないか、と影は足指の股をなぞる。我慢ならなくて叫んだ。
「違う。そのことはもうわかってて、いま書いてる」
そう顔を調書に伏せ鉛筆を走らせた。でもこれは本心じゃない。いま何を書いても影に信じてもらえないだろうって、おもう自分を誤魔化せない。弱くて弱くて、傷付きたくなかった。まだそこを、見る力が湧かない。
眼帯をして文字の世界へ塞ぎ込むわたしを影は覗き込み、容赦なく、弾劾する。
「お前はお前を捨てるつもりなのか。
お前はこのまま干上がって死ぬのかと思った灼熱の砂漠で、美しい蜃気楼に縋っているだけ。抜け出せたと思ったか。気分が変わるだろう。それは幻だ。いくらでも移ろう虚ろなものだ。そんなもの信じるのか。
お前が今書いてるものは、幻だろう?
お前は捨てるつもりでいるのだろう、俺たちを」
どれだけ意地悪な指摘だ、とおもう。
「違う、捨てない。見てる。あんたたちの中に、あの気持ちを見てる。ねえ苦しいし眠れない。ほら、見てるじゃない」
吠えたてる脆弱な負け犬になど影は引かない。まだわたしにはその顔も見えない。
わたしが、わたしに偽りの自分を押し付けていることだけは、知ってる。自分になにを押し付けているのか、なんとなくわかる。
わたしにマウントし凄むあいつらは、それを確実に握っていた。あいつは、隠しきれなかったわたしの本音。あいつらの容赦のなさは、もう嘘をつけない証拠。もう見ぬふりをさせてもらえない。
影との言い合いが始まると、決まって怒りが押し寄せた。
「いつから、どうやって、押し付けてきたとおもうの。お前たちを封じ込めることに、どれだけのナニを費やしたとおもうの。簡単に捨てられるなら、とっくに捨ててる」
そんなことをここ数週間、森の中でずっとしていた。
特性とは、疎んじられる。それは現実だった。共生するなら役割を請け負うのが「平等」だと、頭ではわかる。わたしにも。
しかしそれが請け負えないとなれば、誰もが腫れ物のように焼石のような異質なものを、場外に押し出すか、手の内に閉じ込めようとした。手に負えないものは誰も要らない。
この2年、学校でも職場でも、それを目の当たりにした。何も社会問題だとかデカイ話じゃない。それは、ひとりの人がどう生きるのかの選択の話だった。
この焼石がどこの未来に繋がるのか検討もつかなくて、立ち上がれなくて、文字を書いた。カメレオンになれなかった絶望はそれほど強烈で、凶悪にわたしを縛り付ける。年齢のせいなのかもしれない。もうどうしてもカメレオンになる力が湧かない。だけど、辞めてしまえば、生活も未来も危うくなるんじゃないかと、諦めがつかないでいた。とても長い間。
その自分の判断基準は自分を裁くのみならず、子どもにも向かっていた。
改善しなくてはならない。直さなくてはいけない。社会で、世の中で、この世界で生きるためには。
無言のルールは声高々と焼石に降りかかった。焼石はいらないと否定し続けていた。水をかける世間の手への怒りより、この世に水があることの悲しみの方が勝るのは、わたしの素直な気持ちだった。でも今思うと水をふりかけたのは他でもない自分の、その素直さだった。愛されたくて従順で、認められたくて必死で、許されたくて懸命な、まっすぐな素直さ。
でも火の消えた石として生きたくないなら、選ぶしかない。
影の中にはわたしへの答えがある。成仏を望む影たちの遺言書には、それだけが次への希望だと書いてある。でも肝心のわたしはあの答えを希望に変えられるかわからなかった。この答えが、白い砂浜の終わりに昇る朝日に向かって揚々と走った足跡になるとは、到底思えなかったから。
「ねえ早く消えて。この素直さを覆い隠す厚い自己不信の皮を焼いて。ダメなわたしのダメな弱音と決めつけて、文字に色をつけ、わたしをまだカメレオンに仕立てようとするのを、見透かして。溶かして。だけど怖いから死ぬからほんとに。どうか痛くないようにして。影」
そのように、影のせいにして、影に助けを求めても森の中からは抜け出せなかった。痛い、と言うほど影は悲しみの色を濃くし、頑なにこの森への滞在を引き留める。
その間、現実には、職場の人からの再三の引き留めも何度となく断り、それしか出来ないことと、この寂しさに何度も泣いた。わたしの中の何かを買ってくれて諦められない人たちが涙してくれる前で、何度も説明しながら、自分でも何度も諦めていった。夫にも友達にも癒えぬポンコツっぷりを晒してしまったけど、呆れられるどころか次の約束をした。本当の自分でいても次の日が優しいことに、とても驚いたし腑抜けた。素直になることが、痛いことではなかった。そこに気がつけば気がつくほど、影は徐々に優しくなっていった。
いつしか顔を上げて影と話せるようになり、言葉の色も抜けていた。ただ心からの言葉でよかったんだ。
「待ってて。迎えに来るから。本当のわたしで」
影は、出口はここだと、わたしの真横を示した。出口は進んでいくものではなく、気がつくものだったのか。不思議だけど、そう言えばいつもわたしは同じ点に立っているだけで、周りが動いてやってくる。その進み方も匂いも、思い出しかけ足が出口に差し掛かった。そのとき、うしろの森から声がした。あなたの中に消えていけるのをただ待つと。
希望を握りしめていたから、書いていたとおもう。
カメレオンにならずに生きたい。
この本音とむきあえなくて、眠れない森を彷徨ってしまった。 何が見つけられるかどうかわからないけど、この足が進む限り、足跡を書いていたい。足が止まらないことだけは、生まれた時から変に自信がある。
こんなことを眠れない夜に少しずつ書いていて、あの時下書きばかりになった理由は、ようやくわかりだした。 眠れない森の出口が見えるようになり、影から見送られてここを出て行くまでの、数週間はこんな感じ。
終わらないと思えた森が少し離れて見えるように、そんな時もあったと影に話せる日がいつかくるんだろうとおもえる。その時、あの影はどんな声をしてるだろう。また会う日まで、さようなら。そんな希望を持てるようになってきた。