哲学カフェのお侍さん
少し前に、何ヶ月か、都内の哲学カフェを巡っていた。
テツガク、という言葉にただならぬ魅惑の気配を感じた猛者が、どこからともなく湧き集い椅子に座る。
どうひっくり返しても、面白い、以外の何でもなく、どこも、まあ本当に、多種多様な奇特な蜂の花園だとおもった。
テーブル上には、世代と地域を超えた料理が並び、かつそれらを混ぜたり、かけたりして、元の料理は少しずつ味を変える。
その味変中に、ファシリテーターが呻くことがある。
ルールに守られた場であるにも関わらず、事件のような発言や、突然の激昂が起きたり、涙が流れたりしてしまうのだ。
設置したルールがそれを縛ってくれず、人の感情が網目をすり抜けてしまう。
その時に呻きながら、その味を喜んでいるような、変わり者のファシリテーターがたまにいる。いた。
気がついてしまうと、目が離せない。
一体彼らは何の疑似体験をしているのか。
なぜに休日を使ってそのような苦悶をわざわざ食べるのか。
(敬意を込めて)変態な彼らの性別は、男性が多いように見えた。
40前後の、社会で培った油を持ちながら、二足のわらじで、興奮を求める旅人をも務める。
誤解があってはならないが、事件が起きるとき、彼らは一様に困った表情をして、声は穏やかで静かだ。
そして表の顔が垣間見れるようなスマートさで、その場を諌めてくれる。
しかしその裏には、あぁやっぱり、という顔が隠されているような気がしてならない。
やっぱりそういうものなのだ。人は。
沸かすなと言われても
ダメだと知っていても
超えてしまうと焦っても
そうではないと否定していても
超えたければ超えてしまう性が、どうしてもある。
理性や常識や知性で抑えようにも抑えられない影は体積を増し、その人の背中で蠢いている。
あ、でた。
一瞬で影は、輪郭を顕にする。
あ、あ、ああ
そんな声が椅子に座る誰かから聞こえた気がする。
そして一度出てしまえば、そこは影の独壇場になる。
周りの人はもちろん、持ち主のためにも、影の刃は鞘に戻すのがベターだとわたしもおもう。
ただ、ベターであることと、
出てしまうことは、別の話だ。
剥き出しの刃を持って歩く人を、社会は切り捨てていく。
お前だけ、誰も居ないところでしてくれと、ドーナツの穴に閉じ込められる。
しかし本当はだれもが真剣を隠し持っていて、柄を握る手を、片手が抑えていたりする。
抜くな抜くなと唱え、荒波をやり過ごした経験は、誰しもあるはずだ。
だけど出してみたくならないか?
一度全て曝け出して人前で裸になってみたい衝動が、1ミクロンもないとは言えないだろう。
ただそんなもの出してしまえば永久追放だ。
柄を握る手も抑える手も、真っ白だ。
だから、確かめているのかもしれない。
振ってもらっているのかもしれない。
本当の自分と、本当の感情を。
と、何日も経ってわたしは妄想する。
あの素直で純粋でスマートな好感的なファシリテーターの手が真っ白になる前に、刀を思い切り振れるときが、あの人にあったら、どんな感じなんだろう。
見てみたい。とその光景を思い浮かべて思った。