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私の価値を決めるのは私だ


ここ最近、どうやら私は私の思っていた以上に気分が沈んでいたらしい。


らしいというのはどういう事かというと
雑談中に「なにかあった?」と聞かれ、


「特に何かあった訳ではないけれど、まぁホルモンの乱れですね」と言っておいて(言った時点では本心)
その後、堰を切ったようにここ最近のモヤモヤした思いが止まらなくなったのである。

うっかりしたら涙も出てきそうで、
あー、思ってたより疲れてたんだな我輩。


「美味しいもの食べて忘れよう!」と言葉を貰った。


それが昨日の午前の事。





某ラジオで自分の価値は誰が決めるのかと言っていた。


以前の私は、私の価値を他人に委ね過ぎていたように思う。

およそ知人程度の誰かからの評価が気になったり
誰かに愛され大切にされているという事を
言葉や態度で表し続けてもらえない限り
自分は誰にも必要とされていなく
存在してもしなくてもどちらでも構わないような
それ位の価値なのだと思っていた。


ちなみに両親からは愛されて育ててもらったと思う。
けれど、子供は良くも悪くも親の
『こう育って欲しい』『こうしなさい』という気持ちに敏感で、親の望む自分になろうと努力する事があるように思う。


私は正にそうだったし、なんなら今もそうかもしれない。


『普通』や『良い子』で居なくてはという呪縛は重い。


それはさておき、一体私の価値ってなんだろう。
どこに存在するのだろう。



以前の私は他人に委ねていたと言ったが
現在はどう考えているかというと


私の価値は当然私が決めているのである。


ご飯何食べようかな〜と自分で考え
おでかけする時は自分で決めた服でおしゃれをし
何時に起き、何時に寝て、
どこに行き、誰と、何をするのか自分で決めている。



なんなら人生に関わるような決断であればある程
相談する事なく全て自分で決めてきた様に思う。


絶対に譲れないぞ!!と思う事以外の大抵の事なら
誰かに合わせたり、すんなり『どうぞ』と出来る。


逆に言えば、絶対に譲れないものは
どうやっても譲れないという事でもある。
お読みの方はお気づきであろうが頑固なのだろう。


前述した『普通』や『良い子』の呪いも
私にとって譲れないものの前では効力0だ。
自分でもちぐはぐだと思うがそうなのだから仕方ない。



そんな私が、何故自分の価値だけを
他人に委ねなければならないのか。


平々凡々と生きている私にも多少の紆余曲折はあったし、今思えば些細な事でも、悩みの渦中に居る時は、
この悲しみが永遠に続くのだと本気で思って、落ち込んで捻くれていた時期もあった。


だが今は、私の尊厳を傷つけない優しい人たちが周りにいてくれる。
おかげで私の価値を決めるのは私だと強く思えるように成長できていると思うし、その実感が持てるから、私は今の自分を結構気に入っていたりする。


何度も言うが、私の価値を決めるのは私だ。




このままでは重めの雰囲気で終わってしまう。
それは本意ではないので
嬉しエピソードも記しておこうと思う。


知人のツテで新米を玄米の状態で購入した。
早速コイン精米所へゴーだ!
人生初のコイン精米。
人生初の精米したてのホカホカご飯。
私は生粋のコメラーなので、ご飯のお供は何にするかに思考が乗っ取られてからはご機嫌だった。


やっぱり炊き立てご飯にはこれしかない
と選抜されたのは私の心のスタメン筋子とたらこ選手である。

2つ同時に買うなんて贅沢過ぎるし
魚卵ばかりで痛風待ったなし!って感じでもあるが
今日位は行っちゃいましょう!


いや〜美味しかったですね〜。
よくある質問に『最後の晩餐何食べる?』というのがあるが、筋子をおかずに炊き立てご飯でファイナルアンサーかも知れん。


最高の晩ごはんであった!


食べる事は生きる事。
ご飯が美味しくて私は幸せな1日を過ごせた!
人生それだけでいいのだ。ご飯が美味しいのが一番だ!


『美味しいもの食べて忘れよう』

完璧な伏線回収!
明日もまた元気にモリモリご飯を食べて
モリモリ働いてモリモリ遊ぶぞ〜!!!!

それでは、《完》




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