[理系による「映画」考察] グランド・ホテル(1932) ➡群像劇多重構築(映像的キュビズム)成功の理由は個別の劇にテーマを与えなかったから
にくい!、うまい!、やられた!、
と唸ってしまうぐらい良く出来た映画です。
ホテルを舞台に、異なる人々のうつろいゆく営みを重ねながら1つの作品として成立させる"群像劇多重構築(映像的キュビズム)"に成功した希代のコメディ作品ですが、論理的な側面だけでなく、"常ではない"という意味での無常感から来る寂しさもちゃんと要素として組み込んでおり、それを意図するために舞台としてホテルを選んだところが、なんともにくいです。
で、表題の"群像劇多重構築(映像的キュビズム)"に関してですが、これに映画でチャレンジしたのは、実はこの作品が初めてではなく、自身の知る限りでは、DWグリフィスの"イントレランス"が初めてです。が、あくまで個人の感想ですが、この作品では失敗しました。つまり、"映画の父"であるDWグリフィスをもってしても、"群像劇多重構築(映像的キュビズム)"は、とても難易度が高い手法なのです。
"イントレランス"は、"不寛容"というテーマにおいて4つの全く異なる劇を統合しようとしました。4つの劇自体のテーマは"不寛容"になっていますが、劇間の直接的な関連は一切なく、リリアン・ギッシュ演じる(多分)マリアを媒体にして4つの劇をつなげ、"不寛容"というテーマを壮大に深く表現する試みだったと思われますが、なぜかその試みは失敗しおり、自身もその理由が分かりませんでした。
しかし、"グランド・ホテル"を見て分かりました。"イントレランス"が失敗した理由は、各劇単体において"不寛容"というテーマが分かるように演出したからです。絵画でのキュビズムによる表現を例にえると、各パーツが何を描いているか明確に分かり、明確がゆえ、うまく組み合わさらなかったのです。
一方、"グランド・ホテル"は、役者の演技が魅力的で気付きにくいですが、各劇単体のテーマは基本的には無いです。逆にそっちのほうが、各ピースが組み合わさった後にテーマが急に分かることによる驚きもあり、狙っている効果を伝えやすいのだと思います。
下で紹介する文学でキュビズムに成功した"雁"や"藪の中"も、個別の物語は何をテーマとして描いているのか分かりにくくなっていることを自身の推測を裏付ける根拠として挙げることで、今回は終わろうと思います。
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