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アート・カルチャー

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[理系による「文学」考察] 森鷗外"阿部一族"(1913) ➡"世間体・同調圧力による死"のみごとなエンタメ化

世間体・同調圧力が人を死に至らしめることは今も昔も変わらない、ことが分かる小説です。が、見事にエンタメ化しているため、読み終わった後の気分はなんだかスッキリします!(暗い気持ちになりません。) 小説内で具体的に書かれている内容は、江戸時代初期における"殉死"と"その当時の功名(つまり何が評価されるのか)"についてです。 まず、"殉死"に関してです。殉死の意味は"主君の死を追って臣下が死ぬ(死に殉じる)こと"になり、今の価値観だとなぜそんなことをするのかさっぱり分かりません

[理系による「文学」考察] シェイクスピア"リア王"(1605) ➡誰も幸せにならない物語...。なぜなら、皆に共通する目的・方向性がないから(経営学的考察+α)。

上記のように、シェイクスピアの作品は色々な観点から考察でき、故にシェイクスピアは天才と言われる所以だと思いますが、今回は"リア王"における経営学的考察+αになります。 "リア王"自体の簡単なあらすじと解説はWikiを見ていただければよいですが、結論、誰も幸せにならない物語です…。 もう少し具体的に言うと、すべての行動が裏目裏目にでて、あ~あ、なんでこうなっちゃうんだろう…、なストーリーが終始展開します。 今回の考察のトリガーとして自身が気になったのは、物語として、利己的

[理系による「文学」考察] 川端康成"みづうみ"(1955) ➡変質者による変態幽玄文学...。ここまでくると、川端康成は天才を通り越し、もはや妖怪...。

ゴリゴリ理系にとっては難敵の"川端康成"ですが、考察をうまくまとめられた時の達成感がたまらないので、ちびちび読んでます。 で、分かりました。川端康成は、文学者ではなくアーティストのほうが正確です。そしてただのアーティストではなく、もはや妖怪です…。 そう思った理由の前にまずは、表題の"みづうみ"考察からですが、"変質者による変態幽玄文学"、です。理解しやすいように村上春樹と比較します(村上春樹は明らかに川端康成系譜の作家なのです)。 まずは、主人公ですが、村上春樹に関し

[理系による「文学」考察] 井伏鱒二"山椒魚"(1929) ➡描きたかったのは、蛙みたいな友人がほしいな~、のつぶやき私小説

妻からのリクエストで考察します。 [皆様からのリクエストにもお応えしますので、考察・解説してほしいネタがありましたら、お気軽にお問い合わせください] 最後の文章が謎かけのようになっており、何度も読み返えしてしまう作者の術中にはまってしまう読者が多いのではないでしょうか?または、教科書に採用されたため、特定の箇所・思想にとどまり続けることの危険性、な教え方をされた方も多いのではないでしょうか? 上記の側面も否定しませんが、実は上記は見せかけで、実際は、蛙みたいな友人がほし

[理系による「文学」考察] 芥川龍之介 "藪の中" (1922) ➡文学でキュビズムを実現した"雁"を超えるキュビズム

"雁"を超えたキュビズム、かつ、読者を教養を試す挑戦的な作品ですが、まずはキュビズムと"雁"の関係から説明します。 キュビズムは下記で言及したように、3次元を2次元で表現するための遠近法とは異なった手法による表現方法です。 キュビズムを少し拡大解釈して、ある事象における多面的要素による再構築、と定義してみます。 下記で考察していますが、文学でキュビズムを実現するには?、に1つの解を出す作品が"雁"と思います。2人の主人公による同時刻の2つの異なるストーリーが、交差しそう

[理系による「文学」考察] 芥川龍之介"地獄変"(1919) ➡人間の業を描くのに"ドラえもん"から"笑ゥせぇるすまん"側に振り切れる大天才

"蜘蛛の糸"、"地獄変"、とも不完全な人間の業をメルヘンで描いた作品ですが、 "蜘蛛の糸"は"ドラえもん"側の作品ですが、 "地獄変"は"笑ゥせぇるすまん"側の作品です。 具体的に、いずれも、 困った状況 ↓ お困りごとを解決する奇跡な道具の登場 ↓ 道具を用いて調子をこく ↓ 手痛いしっぺ返し の流れです。 ただし、"蜘蛛の糸"は"ドラえもん"らしくポップに描かれています。 一方、"地獄変"は"笑ゥせぇるすまん"らしく皮肉暗黒面に寄ってますが、"笑ゥせぇるすまん"をはる

[理系による「アート」考察] 川端康成"雪国"(1937) ➡文章で絵を描いた小説

ノーベル賞作品で敷居が高いですが、チャレンジしますね。 ゴリゴリの理系の言わせると、かなり難敵でした。結局、何が良いんだ?、に集約されます。なぜなら論理的整合が取れないところばかりだからです。基本、感受性で読む作品だと認識しており、文系脳のほうがより楽しめるのかな、と思っています。 が、理系脳でも説明できることが発見できたので記述しますね。 この人(失礼な言い方ですが、なぜこう言うかは最後に記載します)、画家です。かみ砕くと、文章で絵を描こうとした人です。"雪国"は風景

[理系による「文学」考察] 森鷗外"興津弥五右衛門の遺書"(1912) ➡遺書自体を文学にする試みに成功した小説

小説の評価軸はいくつかあると思いますが、自身が森鷗外にいつも驚嘆するのはその発想力です。 "興津弥五右衛門の遺書"は、"遺書"そのものを小説というプラットフォーム上での表現媒体にしよう、という発想に度肝を抜かれました。 内容は、余計な説明はほぼなく、ピュアに"興津弥五右衛門さんの遺書"として読めるように書かれています。かつ、遺書、なのに小説として楽しめる・非常に興味深く読めるようになっています。そんな文学、世界にないのでは… 現代でもこんなに興味深く読めるのに、乃木希典

[理系による「文学」考察] 森鴎外 "雁" (1911~1913) ➡文学でキュビズムを実現

自身の背景がゴリゴリの理系であるせいもあると思いますが、日本の作家で一番好きなのは軍医であった森鷗外です。他の作品もいつか考察してみようと思いますが、今回は"雁"です。 キュビズムは下記で言及したように、3次元を2次元で表現するための遠近法とは異なった手法による表現方法です。 キュビズムを少し拡大解釈して、ある事象における多面的要素による再構築、と定義してみます。 文学でキュビズムを実現するには?、に1つの解を出す作品が"雁"と思います。2人の主人公による同時刻の2つの

[理系による「カルチャー」考察] 村上春樹作品を読み終えた直後にミョーな気分になる理由

村上春樹作品を読み終えた後の、あのなんとも説明できないミョーなモヤモヤ感が出るのはなぜか?、を考察してみた。 結論から言うと、主人公に普通の人間が持ち得ている感情が一部欠如しているから、となる。 端的に言うと、主人公がサイコパスなのである。 主人公に起こる現象があまりに衝撃的に、かつ、主人公以外の人物が分かりやすいサイコパスに描かれていて気づきにくいが、冷静に読んでみると、主人公も何らかの感情が欠如している。 よって、読み出しからミョーな違和感を感じるのだが、そのまま