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人の気持ちの理解について考えてみたASD=娘の場合

「相手の立場になって考えましょう」
幼少期によく聞く言葉だと思う

相手の立場とは…?
私も長い間疑問を持たずに受け入れてきた言葉だ

ずっと違和感を感じながら育ててきた娘を
8歳の時にWISC-Ⅳ検査実施
結果は山あり谷ありグラフのASD+ADD
診断時に医師から
☆学年が上がるごとに人間関係での困りごとが
 増えると思う
・友達同士の会話中に突然違う話をしたり
 相手がどう思うかを想像せずに思ったことを
 そのまま言ってしまうなどによるもの

アドバイスとしては
☆経験や感情を知識として記憶させていく
・知識が増えれば状況によって
 当てはめることができるようになる
・人の気持ちが想像できないなら覚えるしかない

例えば挨拶
A「おはよう」
B「・・・」
A「聞こえなかったかな?おはよう!!」
B「・・・」

よくある話
無視されたら嫌な気持ちになるからやめましょう
自分がされて嫌なことは人にしないようにしよう

これが理解できるかどうか?
ASDだからできない
定型だからできる
わけではないと思っている

ASDでも定型でも「無視されたら嫌な気持ち」になるかは本人にしかわからない

結局「大抵の人はこう思ってる」の元を辿ると
道徳の授業なんかで
先生「はい、みんな目を閉じましょう。挨拶したのに無視されたら嫌な人は手をあげてください。
はい、目を開けて。ほとんどの人が手を挙げましたね。無視されるのは嫌な気持ちになるからやめましょう。」
というようなことの繰り返しで覚えていったものと捉えることができる
これは学校に限られたことではない
生活で困りごとのない子どもたちは特に意識することもなく「普通は」と覚えていくのだと思う

しかし娘には医師のアドバイスがあったため
「普通は」を意識的に説明してきた
公園での遊びの中、習い事での指導、家族、小説、漫画、映画、アニメなど様々なものから

それでも学校では突然殴られたり
突き飛ばされたりいろいろな事が起きた
結局人の気持ちを考えてやられ続けたのは娘であり定型と呼ばれる子たちの集団に
「行動が変、リアクションが面白い」とからかわれイジメられただけだった

そして集団生活あるあるの発表会
「自分の意見を言いましょう」
何分も全員に待たれ泣きながら一言だけ発した
以降、場面緘黙となった

今でも安心して話せると判断した人、生活する上でやむを得ない場合でしか会話をしない
それ以外は緘黙するか文字にして伝えている

何が正解で何が間違っていたのか?
そんなことは今でもわからないし今さら変えられないものを考えていても仕方がない


「何度言ってもわからない、わかってくれない」は
気持ちがわからないではなく
行動に不注意がある
行動の意図が理解できないのだ

「会話を中断し関係ないことを言ってしまう」は
会話に興味がないから違うことを考えてしまった
会話の終わりを待っていられなくて
すぐに言いたいことがあったのだ
たとえそれが悲しい場面であったとしても

この場合必要なことは「悲しい話を聞いてもらえないと自分はどう思う?」から始めることになる
娘「聞いて欲しい」
私「じゃあ自分が言いたいことを我慢して何を話
  しているのか集中して聞かないとね」
娘「言いたいことを忘れるよ」
私「忘れてしまうことは言わなくてもいいのかも」
娘「???」
これを繰り返して知識として記憶させていく

ASDはいろいろな要素を含めての理解はされ難いがお喋りは上手だったりすることが多い
なので「人の気持ちがわからない」と
判断されてしまうのだと思う

「ASDでも人の気持ちがわかる」は
「知識じゃないか」と言われるかもしれないが
それはASD、定型に関わらず子どもなら一度は
人から学んでいる行動である

人の気持ちの理解について
「知識として覚えるしかない」困りごとの気持ちはあなたにも私にもわからない
娘は今知識を基に応用力を身につけている
人の気持ちをわかろうとしていると私には思える

あらゆる気持ちは本人にしかわからない

わかるというならそれは本人に聞いた場合でありそれ以外は日々の意識的な観察からくる行動の予測、技術が必要だと私は思う


読んでいただきありがとうございました!
ヘッダーは娘がお宮参りした鶴岡八幡宮
今年行けたから記念に⛩️

p.s.
これを書いて思いました
私に根拠を示す重要性を教えてくれた方へ改めての感謝を込めて…ありがとうございます

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