いのちの車窓から 2

『いのちの車窓から2』を読んだ。『いのちの車窓から1』から7年経つのか。随分経つな。

読んで感じたのは、圧倒的な星野源の考え方の変化。生活も環境も圧倒的に変化している中だったら、そりゃ考え方も変わるか。

星野源もあとがきに書いていたが、『それでも生活はつづく』とか、『働く男』とか、『蘇える変態』とかの星野源とは全く違う。諸行無常なんだな。

それでも星野源は星野源であって。『ばらばら』で歌っていることは結局、今の星野源の中にもある。ただ、その『ばらばら』を作詞作曲して、歌っていた人が、今、ガッキーという最高の味方と一緒にこの世界を必死に歩み続けているという状況がとても嬉しい。「良かった源ちゃん」と親のように思い、色んなことにクソみたいだなと今思っている俺も、頑張ってこの世界を歩いて行ったらガッキーみたいな味方に出会えるかも知れないから、とりあえず歩いてみようと思える。

ただ一つだけ。

星野源は『今を生きる』で過去の星野源がやっていたことは間違いだったと言っている。武道館の復活ライブで登場時に、観客にくだらないと思わせるために、星野源が看護師のミニスカートをのぞいていた演出とか、ラジオネームでチェリーネーム、ピーチネームで読んでいたこととか。それらを間違いだったと言っている。それがなんとなく寂しかった。

そりゃ今の価値観で言ったら配慮が足りないということではあるのだろうが、そのことをあえてやるというかっこよさがあったというか。星野源の「変態」キャラを全て否定してしまうと、当時、小学生・中学生の俺が好きだった2010年代前半の「変態の星野源」は全て間違いになってしまうというか。

星野源は志村けん、桑田佳祐のような表現に憧れていたと明言していたが、今もテレビの音楽番組で女性ダンサーに奇抜な踊りをさせている桑田佳祐を、今の星野源はどう思っているんだろうか。俺はどうしても、今も信念を曲げず同じことをやり続ける桑田に対してかっこいいと思ってしまうが。それも違うことなんだろうか。

もちろん考え方をアップデートしている星野源も、あえてやり続けることで周りから「攻めている」と言われている桑田佳祐もどちらも間違っていないんだと思う。

ただ、そんな風に当時の星野源が自由にやっていたことで、当時の俺も自由に生きてみようと思ったのだ。なんか日々のいろんな制約なんてくだらないと思えるようになったのだ。心の中では何を思ってたって良い。それを知れて、だいぶ生きるのが楽になった。俺は星野源の「変態」に救われてたんだだと、今の星野源に伝えたい。「蘇える変態」は俺の人生の中で大事な一冊だ。だから間違ってたなんて言わないでほしい。

それでもやっぱり俺は、この人の生き方が好きだ。かっこいいな。
この本を読んで、ただただそう思った。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集