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作品の前に一人で立つ

ブラームスop15は6/4拍子で始まる。けれど、その骨格が読み取れていない演奏はその最初の一音から失敗する。さらに言えば、この作品を、所謂「ブラームス」のイメージで見てしまうと、ますますこの冒頭のエッジは削がれてしまう。音響の垂れ流し。脂で垂れ下がるだらしない身体のような、気持ち悪るさ。

作品の背景とか、作者の人間像とか、そんなものに囚われる前に、楽譜を見て、その法則性を探り、周期的な運動性を把握すること。それができなければ、色眼鏡で捉えたイメージと、耳で聞いた感覚に騙されるだけ。先行するイメージに囚われている捉え方しかできないヲタク気質では作品は見えてはこない。演奏も、批評もできやしないのだ。

11小節めにようやく帰着するこの冒頭のフレーズは一体どのような周期性があるのだろう。それに着目すると、この運動の仕組みが分かる。そして冒頭がなぜ鋭い印象を与え得るのかを思い知るのだ。

西洋の音楽の場合、多くは3か4か6で割り切れる周期性でできている。場合によっては5という変化球もある。お気づきのように、このop15は2つの小節を対にした大きな5拍子でできている。そして、その位置関係が分かると、この冒頭はシンコペーションアクセントを要求していることは自ずと分かる。この事実が見えないのは「楽譜」が見えてこないは、楽譜を見て考えていないからだ。所詮聴いた記憶に流されているだけである。「聞いてはいない」のだ。

世間では、耳を傾けて「聴く」が大事なように言われている。だが、その「感覚」的な日本文化的な「浸る」では「聞けない」。批評にはこのレベル止まりが多くなりがちなのは、「聴く」をした後の感想と、「蘊蓄」がそれを増強していることで、「分かった」つもりになっているからだろう。「分かる」には「見える」が必要である。そのためにはさらには「考える」が必要なのだ。

「聞く」という字が「門構え」の字である理由はここにある。「聴く」というのは「聴覚」レベルでしかない。つまり、感覚であり、いうなれば感想でしかない。

それはフェアではない。つまり、公的にするべきものではなく、あくまで「個人差」のあるレベルの問題でしかない。

「感じる」ことは個人の自由だ。だが、それは他人に強制することはできない。他人の感想を批判することもできない。

この問題に気が付いて、フェアであろうとして、権威や情報に頼ろうとする傾向が強い。けれど、それは逃げ道でしかない。個々人ができるフェアさは楽譜を読んて、弾いて考えることだけなのだ。その立場にいることで初めて皆が作品の前に平等に立てる。それは我々だけでなく、作者自身もだ。

演奏者も、指導者も、そして批評を公言する者も、その簡単な事実に気が付かなければならない。

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