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打ち合わせて音を並べるのなら誰でもできる。演奏ってそういうことじゃない

指揮をするって、拍を叩くことではない。打ち合わせの上でどういう音を並べるのかを、監督することでもない。そんなことなら誰にでも出来る。

そんなことではないのだ。脈絡を掴んで、そのフレーズに発音をまとめるように、その道を先導することでなくてはならない。

例えば、D759の第2楽章3/8andante con motoの冒頭はどういう骨格になっているのか?それが掴めていなくては脈絡のない音並べてしかできないだろう。このAndanteを8分音符の3拍子でしか執れないようでは、とても指揮はできないのだ。

フレーズ全体をひとつの弧の中に収められる、そういう視野で指揮はしなければならないからだ。そうでなければ、音響から自由にはなれない。この冒頭は0小節を起点に小節の6拍子がみえていなくては歌わせられない。「打ち合わせ」の上でするのは指揮ではない。

K.338の第2楽章の場合はどうだろう。その骨格を考える上でヒントになるのは2小節めの4つの8分音符だ。これはアップボウによるスラースタカートで弾かれることは想像出来る。それが、全体像の「見えてる尻尾」になる。この小節がアップの呼吸になることを考えると、これはダウンとアップの2つの小節を分母としているフレーズとなる。結果として、

①0 0 ②1 2 ③3 4 ④5 6 |①7

という大きな4拍子構造が見えてくる。念のためだが、その次のフレーズは同じ分母の3拍子となるのも面白い。

ブラームスop90 の第3楽章も2つの小節を分母とする6拍子の弧の中に括れなくては歌として成り立たない。マイ・ウェイを絶唱するバブル期のおじさんに
なるのは恥ずかしいことだ。

このような骨組み、道筋がわかって指揮運動は行われる。打ち合わせではなく、指揮によって導くことに近づく。小節の中の拍を刻むことに専念してしまう初見譜読みの指揮では音楽は見えなくなってしまうのだ。

演奏の「結果」として音楽になるのではない。作品をどう歌うのか、どう歩むのかが先ずあって、それが実現するように演奏すること。つまり、先に音楽はあるのだ。

あるいは部分をどう弾くか、ではなく、なぜそこがそうなるのかを導くように、することでなくてはならない。

音響を中心にしてしまうから、停滞する。音塊の羅列しかできなくなる。そういう「音を楽しむ」という趣味に墜ちてしまっては音楽にはならないのだ。音響をどう紡ぐのかが演奏であって、並べることで終わってはならない。

BWV1068のガヴォットをどう指揮するのか、先ず考えて見ることはいい勉強になる。


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