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「相手」がいるから自分が見えるの視野を持つ〜モーツァルト交響曲第34番冒頭をきっかけに
Allegro vivaceが単なるallegroとは決定的に違うのは、その立ち上がりの位置にある。
通常のallegroは0小節めを起点として帰着点に向けて拍節を形成していく。
だが、これに対してallegro vivace はアウフタクト小節から拍節を開始する。例えば、K.551はその典型で
1 | 2 3 4 5|6 7 8 …
という小節の4拍子を構成していく。つまり2小節めの1拍目はアウフタクト小節の運動を受け止めるダンパーの役割を負っており、その受け止めた衝撃波が3小節めのアウフタクトの起因となっている。楽譜を見ていると、その運動性の凝縮の見事さが伝わってくる。この関係性が読めないと1小節めと2小節に対比関係を見てしまう。一見面白いけれど、そのミクロ視野は作品を見えなくしている。
この1小節目は2小節目1拍目を導く過程である。その1拍目のための装飾とも言える。
allegro vivaceがそういう音楽造りの用法であるであると仮定すると、他の曲もいろいろ発見がある。
例えばK.338の冒頭だ。これも2小節めに落ちる形だとわからなければ、音並べに過ぎない演奏にしかならない。
音並べで終わってしまう演奏は、それぞれの音符や小節、フレーズといったものを相対的に捉えていない。その全体からの関係性で見ることができていないのだ。四分音符はいつでもどこでも同じ四分音符なのだろう。
だが、全体との関係、相対的な在り方で捉えないと、音はそれぞれバラバラなままになる。楽譜はあくまで便宜的な記号である。そのことについて「諦め」は必要なのだ。
音楽は音を使った論理構造である。音による形を作り、意味を成すものである。音響しか見えない状態ではこの「論理」の構築を再現できないのだ。K.338や551のような冒頭を、単なる音符として鳴らすようにしか見えていないと、その相対的な在り方はわからない。おそらく、「allegro vivace」はそのためのヒントであり、演奏上での「お約束」だったのだろう。だが、そのルールが見失われた現代では単なる「雰囲気」でしかない。※というか、そもそも「allegro vivace」であることも「4/4」であることさえも気がついていないのではないだろうか?
1小節目と2小節目はどんな関係てあるのか?それは楽譜を見ながら考えるしかないのだ。allegro vivaceは大事なヒントであることに気がつくはずだ。
楽譜の設定上で、その約束事が本来あったのだと思われるのだ。allegroとは何であり、メヌエットとはどうするものなのか。そういう設定上の約束事は、音符や小節の相対的な設定条件であったはずだ。それが読めず、知らず、ただ単純な「楽譜通り」ばかりがまかり通ってしまったのではないだろうか?
クラシック音楽の演奏で、シンコペーションやヘミオラが、その本来の「縛られない自由さ」を失って、単なる平面に塗り潰されているのも、実は音符や小節たちの相対的な在り方を見る目を失ってしまっているからではないだろうか?
楽譜にはまるで「俳句」のような、それ以上に空間を表現できないような見事な位置を持っている作品も少なくない。ブラームスop73の第2楽章冒頭の立体感の見事さは、まさにあの書き方でしか表せない。確かに読み解くのは難しい。だが、「1拍分ずれてるだけ」という妥協的な姿勢では、絶対に表現できない空間がそこにはある。楽譜の事実に喰らいついて悩まなければならないのだ。
あるいはブラームスop98の第4楽章のシャコンヌテーマは単純に8小節が並んでいるだけなのだろうか?そんなはずではない。必ず意味を成す「形」を持っている。その形さえも気がつがないで音響を鳴らして並べるから、演奏はますます楽譜の事実と乖離してしまう。そもそもallegroとは何なのだろうとなぜ疑問を持たないのだろう?
「音高と音価とリズムさえ合っていれば音楽は再現できる」なんて訳ではない。ましてや「ひとつひとつの音に心を込めて」いたら、ますます形は見えなくなる。少し後ろに引いて、全体像はどうなっているのかを見ようとしなければ、音楽も文章も、その「論理」は見えてはこないのだ。
それが見えてもいないのにミクロな「理論」ばかりに拘ってしまうのは、本末転倒というしかない。