外分点の発見と音楽〜ベートーヴェン交響曲第2番第4楽章
Hob1:86の第4楽章allegro con spirito の指揮が若い頃には難しかった。もちろん、小節の中を二つや四つで執れば簡単なのだろうけど、それでは小節と音符とが作っている弾力性のあるリズム感が死んでしまうからだ。そして、そもそも、音符しか見ていなかったからだ。その開始である2小節目のためのアウフタクトの起因がわかっていなかったのだ。
「spirito」系のallegroはおよそ4つの小節を分母とする音楽である。それが読めていれば、この運動性は簡単に読み解けたのだが、以前はそういうのは雰囲気だと思っていたから…
さて、この音楽は
① 1 2 3 4 ②5 6 7 8
往きと帰りのフレーズの組み合わせでできていて、その開始の2小節めのアウフタクトの起点は休符となっている1小節目へのインパクトにある。それを起点とし、小節の4拍子を構成するように呼吸することがこの楽譜を読み解くきっかけとなる。
つまり、「小節による4拍子」という外形がわかっているから、指揮ができる。アンサンブルも可能になるのだ。これがわかっていないと頭の八分音符を「合わせる」というミクロ視点に堕ちてしまう。そして、そういう呼吸では音楽は死んでいる。
この楽譜はヒントとして「1小節め」をきちんと書いている。それが何よりの鍵となる。※ブラームスはこういう親切はしてくれないのに。
さて、この4/4allegro con spiritoの楽譜には音符の外側にも音楽の空間があるという大事な示唆がある。つまり、その音楽の起点は音符の前に、あるいは小節にあることを明確に示している。これは座標的に表せば「外分」点を取ることになる。これは自分にとって大事なきっかけとなった。
「音符を音にする」ことが演奏の範囲なのではなく、音符を配置しているその小節という土台自体を動かすことが演奏なのだということ。恐竜の化石はその骨本体だけではなく周囲の付着、付随物を含めたものという現代の考古学の発想と同じ視野が必要なのだと。
このHob1:86の場合、小節による4拍子という外形そのものを動かす呼吸がなくてはならないのだ。
さて、ようやく本題。
ベートーヴェンop36の冒頭もこの外分点の視野がなくては演奏できない。その骨組みと空間的な把握ができていないから3/8に堕ちてしまうのだ。
①0 1 2 3 ②4 5 6 7
そして、この問題は第4楽章にも関わっている。
第4楽章2/2allegro moltoは八分音符によるアウフタクト開始である。さて、この最初のフレーズの帰着点はどこにあるのか?感覚だけで捉えてしまうと2小節めの二つの四分音符たちにアクセントを効かせて足を止めてしまいがちだ。そこに帰着点を置くと3小節めのアウフタクト開始までに微妙な空間が生じてしまう。それは楽譜が望んでいることではない。そもそもそのような踏み込みでは、この主題自体は小節毎にコブのある凸凹だらけなものになってしまうのだ。そのような不格好な姿にしてしまう演奏はみっともない。それはこのフレーズの起点を読み間違えていることに原因がある。0小節目にある八分音符を1小節めの頭に従属させる装飾音として捉えているから、そうなってしまう。小節毎にバラバラな作りに堕ちてしまうのだ。
この開始のアウフタクトは、第1楽章冒頭とのそれと同じように外分点に起点がある。そして、それを起点として、どのような空間図形を作っているのかを見通さなければならない。つまり、どこに帰着するのかを図形的に捉える視野が必要なのだ。そうしなければ0小節めをきっかけにしたところで音響に振り回されてしまうだろう。ワルツが指揮できないのと同じなのだ。
では、この0小節めはどこに帰着して、図形を閉じるのか。
それは5小節なのだ。冒頭も6小節めのアウフタクトも小節の頭に落ちるインパクトによって引き出される反作用によるものなのだと気がつくのだ。
つまり、このフレーズの外形は小節の6拍子であることが読み取れる。
0 1 2 3 4 5 | 6 7 8 9 10 11 | 12…
ちなみにこのあとは分母は二つの小節に拡大される。
このような形が見えていないと、終結部もスマートにはまとめられない。415小節めのフェルマータのために、自分位置が見えなくなってしまうだろう。このフェルマータは414小節め裏からのタイによって引き継がれたシンコペーションに基づく。この目眩しに騙されてしまうと最後を締めくくるきっかけを見失ってしまう。実はこの終結部は整理された把握が必要なのだ。
だが、冒頭の形が見えているのだから逆算的に考えられる。423小節目が拍節の1拍めとなるようにする。つまり、415小節のフェルマータの解除を拍節の1拍目として「小節の4拍子」として考えれば呼吸の失敗は起こらないのだ。
ただ問題は「0小節め」を見出すことができるかどうかなのだ。鳴っている音自体しか認識できないと、その八分音符の起点を見つけることはできない。それは「音楽」という論理の形を捉える上で最大の欠点となる。
数学で「外分」という視点を指摘しているのは単に幾何の問題ではなく視野の持ち方という哲学的な指摘でもあるように思うことがある。
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