3/4拍子の可能性〜ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章冒頭の楽譜から
ベートーヴェンop125の第4楽章冒頭3/4prestoは4つの小節の2拍子という形で提示しなければならない。そして、その勢いのまま空白の8小節め1拍目に突っ込んでいく。
確かに聞いている者のリズム感にもよるが、演奏者や少なくとも批評の立場にいるのであればこの「形」捉えられなければ話しにならない。音楽は「形」で語るもの。もちろん、ベルリオーズや後期ロマン派の作品であれば音響としてのスペクタクルで勝負するのだろう。だが、ベートーヴェンはバッハやあるいはハイドンと同じように形で語る作品を見て書いているのだ。その立場の認識は忘れてはならない。
この第4楽章冒頭はその切迫感のある2拍子が稲妻として8小節めに叩きつける形があってこそ「審判の日」のような衝撃が走る。そして、その異様な緊張感がレシタテイーボ風の低弦を立ち上がらせる。
形の見えていないだらしない演奏。その冒頭の四分音符や八分音符の音響に囚われてしまう。だからレシタテイーボ風の低弦が音響垂れ流しと音圧だけのダメなオペラ歌手のアリアのようなものになってしまう。
それでは「交響曲」としては「失敗」なのだ。
さて3/4はリズムのいろいろな可能性がある。この3/4prestoも初見ではとても読み解き難い。ここでは3/4の小節を2つの付点四分音符で分割する仕組みで組み立てられている。その読み解きのヒントはトランペットが「運命の動機」を連続的に叩きつけているところにある。「運命の動機」の形を認識できると、この3/4prestoの導入部と続く「レシタテイーボ風に」の部分も「音楽」として捉えることができる。この運命動機の「形」は実はop125に底通する遺伝子の形でもあるのだから。
先日のBWV1067のサラバンドもK.550のメヌエットもそうなのだが、音楽を音響で捉えようとすると理解できないが、3/4を多様さを踏まえ、その形を利用するとスッキリとしたそのスタイルが作品の魅力であることがわかる。
BWV1069の終曲も3拍子の多様性に迫った面白さがある。音響的に聞いてしまうと特徴的なリズムばかり聞こえてしまうが「形」が掴めない。
3/4を3つの四分音符で数えるような初見スタイルではこの音楽の生命感溢れる曲調が台無しになる。
3/4の小節を2つに分割する付点四分音符の音楽として捉えられるとその冒頭の印象は全く変わる。それは0小節めを見れば明らかである。1小節めのアウフタクトは付点四分音符分の音価が与えられているからだ。反復に入る12小節めや、最終小節を見てもその点は明らかだろう。
一方で5小節めからの3小節間は2分音符の支配が強いヘミオラの音楽になっている。
このようにこのレジュイッサンスは、付点四分音符のフレーズとヘミオラのフレーズとの交替をクールにやって退けることが求められている。
001|234|567|8910|1112…
前半の反復前までは小節の3拍子の4回転で出来ている。ところが反復あとの後半はやや複雑になる。
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に続き、小節の4拍子拍節が随所に介入してくるからだ。付点四分音符のリズムとヘミオラのリズムと3拍子拍節と4拍子拍節が入り乱れているこの音楽の賑やかさをクールにやって退けてこそ、演奏のし甲斐がある。また、積極的な聴く側もスリルを感じることができるのだ。
この作品も「形」で語ることの大事さを改めて感じさせる。
20世紀のレコード文化の時代にはやたら音響で聴かせようとする演奏の傾向が強かった。これはその時代の演奏者も、レコード産業も、評論家も、そして聞き手も後期ロマン派の時代の音楽観の中で育ってきたのだから仕方がないことだ。
だが、現代においてはその傾向も「ひとつの捉え方」として客観的に見なければならないのではないだろうか?
例えばベートーヴェンop84序曲の序奏などはサラバンドの形で演奏されるべきなのだが、未だに、精神性の名の下に、厳つい音響の陳列に終始してしまう傾向がある。
また、先日も書いたようにブラームスop98第4楽章も作品のスタイル感が全く無視されたadagioのような演奏になってしまう。
演奏者も批評者も、「形」で勝負している作品と、「音響」「音色」で勝負している作品とを区別できなくてはならないのだ。少なくともその区別はしなくてはならない。
いや、まず、論理としての形はどんな作品でも掴まなければならないのだ。音に聞き入っているうちは音楽はわかっていない。
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