扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて
ベートーヴェンop67の開始は「八分休符から」という話しは子供のころから散々聞かさせれてきた。そこに「溜め」が生まれる。だから発音が鋭くなると。如何にも音楽のせんせいたちがしたり顔で語りそうなネタだ。
だが、それは20世紀のドイツの巨匠たちのようなあのテンポ感であったからこそ、のものであったのではないだろうか。楽譜の2/4allegro con brioのテンポ感ではその「八分休符」に妙な重みを持っている余裕はないように思う。その感覚はもはや古いように感じる。
小節の内分の発想に立っていると、確かにその休符の「存在意味」は大きい。そして、その休符に何かしら精神的なロマンを見出したくもなるだろう。
もちろん、その休符のために発音の最初には独特なアタックが約束されることは事実だ。だが「溜め」という意識、重要な精神的な意味を持つ休符という余計な感情は結局、この開始のテンポを遅くしてしまいがちなのだ。
八分休符は八分休符に過ぎない。「溜め」というよりは、むしろ、無音なのだ。敢えて言えば「ズババババーン!」なのだ※懐かしい😎
そして、フェルマータにも意味を持たせ過ぎてしまうのも大時代的な悪習だ。この最初5つの小節に出てくるそれぞれの音符に過重な意味を持たせて均等に鳴らし、フェルマータをテヌートさせるというレコード全盛期時代のやり方だ。むしろ、フレーズを演奏する視点から見れば、それぞれの八分休符からフェルマータに向かい、> していくような発音の方が目指されるべき自然な姿であろう。
発音は均等ではなく減衰していく。ピアノのあのイメージだ。この5小節をピアノでどう鳴らすのかが参考になる。テヌートではない。
運命が扉を叩くとか、鳥の囀りだとか、そんなことはどうでもいい。そういう余計なイメージではなく客観的にその冒頭を捉えることが大事なのだ。
前時代的なイメージがなくてもこの冒頭は充分に衝撃的だ。それは0小節めを想定しない強引な呼吸から充分に伝わる。
音符や休符を単位にして、そこに過度な音圧をかけるからテンポ感は外付け的になる。その状態で自然さに任せようとすれば、それぞれの音の干渉を避けるためにテンポは落ちる。
どちらにしてもその人工的な音鳴らしは「イメージ」に振り回されて楽譜を見ないという結果に堕ちてしまうのだ。
音楽のせんせいは、やたらとイメージなるものに拘る。だが、イメージという外付けのストーリーよりも大事なのは楽譜が描こうとしている「形」であろう。 その形があるから、何をどう語るべきなのかが見えてくる。「音楽は音を楽しむこと」という優しくて綺麗な詞が誤解を招かせる。文章読解も読み手のイメージが先行しては正しく読めない。だから如何に客観的に相手の主張を読み解くのかが大切だ。楽譜を読み解くのもそれと同じなのだ。その上で演奏が始まる。読み間違えていてはそれはできない。
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