「積み上げる」よりも「見通しを持つ」こと〜ベートーヴェン交響曲第5番第2楽章
ベートーヴェンop67の第2楽章andante con moto は3/8拍子で書かれている。
この演奏が難しいのは、この冒頭主題の尺が長いことにある。つまり、起点から帰着点までの距離が遠く、それを見出せていないと、部分的なフレーズにとらわれてしまうのだ。
このような息の長い曲に出会った場合、小節の素因数分解的にメロディの全容を捉える必要がある。逆に言えば、それができていないから、響きに頼ってしまう。そうやって「精神性」とか目に見えない何かに陥ってしまうのだ。
この主題自体は「6つの小節を分母にした3拍子」の骨組みでできている。
この曲の開始に必要なことは0小節目に踏み込む時に、その1小節めアウフタクトをどう引き出すか。そして、そのフレーズはどこに帰着するのかを踏まえたステップを意識していることである。
このアウフタクトへの踏み込みによって全てが決まる。20小節を超える先にある帰着点までの過程が見えていなければandante の小節運動で駆け抜けることはできない。
つまり、演奏しながら、音を聞きながら歩んでいくような足し算では演奏はできないのだ。それほど単純ではない。
①0 1 2 3 4 5 ②6 7 8 9 10 11 ③12 13 14 15 16 17 |
①18 19 20 21 22 23
この構造が見えていて、初めて0小節めに踏み込みことができる。そこへのアプローチの角度が見えているからだ。
見通しのない足し算は結果に依存するしかない。だから、その過程にある仔細なことをひとつずつミスのないように積み上げるやり方になってしまう。それは息の詰まる作業だ。結果が見えていないのにひたすら積み上げるのは、作業自体が目的になってしまう。だから、形を聞かせるよりも、響きに頼ってしまうのだ。演奏は作品を聞かせるものであって、響きを積み上げることではない。「ひとつひとつの音に心を籠める」というせんせいの美しい詞も、全体像がなくては単なる精神論でしかない。竹槍では戦闘機には立ち向かえないのだ。そこには「知恵」や「見通し」が必要なのだ。
見通しが立たない単純作業に陥ってしまうから、かったるくて聞いてられない退屈なものになってしまう。そして、そういう見通しが立たない労苦に陥っている時ほど、精神論や根性論が語られる。それは前世紀の失敗だと分かっているはず。大事なのは根性ではなく知恵と勇気なのだ。八分音符を「1」として数え、積み上げるのでは背後にある問題には気がつけないのだ。
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