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騙し絵と音楽の捕まえ方

ブラームスop73の第2楽章は4/4 adagio non troppoと言うあまり遅くはない楽章のして設定されている。アウフタクトから始まるこの主題は捉え方が難しい。その捉え方がわからないから、設定とは異なる遅い演奏となりがちなのだ。

小節の中の音符と聴いた記憶で演奏する人にはこの音楽自体が見えないかもしれない。その人の、感覚的にメロディらしく聴こえてくるものは、楽章から見たら設定のズレたものになってしまう。聴く人も演奏する人も、その捉え方自体が間違えていることに気が付き、それを修正するために努力が必要なのだ。だが、感覚派の人ほど、そういう努力をせずに、間違えていることを開き直ってしまう。感覚的な把握を乗り越え、楽譜の通りの把握が出来た立場からすれば、そこに見える景色はまるで違うのだ。騙し絵に気がついた時のような違いがある。

楽譜の通りの把握をするためにスコアに向かい合う。その時、それぞれの音符や縦の目線の和声分析ではなく、そのメロディーの造りを知ることがまず第1である。造りがわからないのに、ミクロ目線の捉え方をしても無駄なのだ。

さて、この曲の場合、感覚的なメロディーの動きと小節線の動きがズレてように見えるから、ややこしい。

だが、どんな作品でもその鍵は必ずある。つまり、音楽の動きを支えている骨格が必ずあるのだ。ここでは、その鍵は低音の動き方にある。

特にわかりやすいのは、6小節めから低音パートが3小節間同じ音型で動いている点だ。つまり、この音楽の運動は3つの小節を分母として動いていることが分かる。そのことに注目すると、冒頭の低音パートのシンコペーションリズムが、3小節めに帰着していく流れを掴めるはずだ。つまり、そのシンコペーションの運動も0小節に起点があることが分かる。そして、この音楽自体が3つの小節を分母とする大きな4拍子の骨組みで出来ていることも見えてくるのだ。

D759の「序奏」主題も、同じように低音パートの動きの把握から、その呼吸が読める。つまり、7小節めからの3つの小節がタイで括られていることがヒントとなっている。その事実を鍵して見ると、この音楽は小節を分母にした3拍子の呼吸であることが分かる。こうやって、ようやく、多くの演奏が実現出来ていていない、allegro moderatoの本来の呼吸が掴めるはずだ。

キャンバスの大きさを把握しないでで絵を描く人はいない。けれど、音楽演奏の場合、それを把握しないで弾き出してしまう人は少なくない。
そのメロディがどういうキャンバスの上に描かれていくかも把握しないのは、単純に音符を鳴らす発想でしかないからだ。

クラシック音楽の演奏がその生命感を失って、一部の人たちの趣味に陥ってしまうのも、それが原因なのだ。極端に言えば「音」そのものに目がいってしまうからだ。そこに尤もらしい「精神性」とかいう言葉による洗脳があるのだ。音が脈絡を失って並べられるだけのものになる。それでは「リズム」の躍動を失う。そこには音を出すための呼吸はあるが、歌うための呼吸は失われている。「歌う」が単に「音を響かせる」行為に陥れてしまうのは、その歌のための呼吸のない、統合する脈絡のない音圧しか聴く趣味でしかないのだ。

そういうミクロ目線になっている時こそ、一度、楽譜を見る距離を離して、大きな目で捉え直す必要がある。その音楽が、そのフレーズがどのようなキャンバスの上に描かれているのかを把握する必要がある。

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