疾走する哀しみ
K.550の第1楽章2/2molto allegroの開始は興味深い。ここには1小節目が完全小節と存在することだ。
なぜブラームスop98のように主題のアウフタクト開始にしなかったのか?そこに作品の狙いがあるのだ。
この第1主題が現れるとき、その開始は、他の箇所ではアウフタクトと小節一つがあって伴奏が後から乗ってくる。だが、ここではまず伴奏があって、その後に主題が乗ってくる。これは何気ないことだが、実は決定的な違いがある。
この冒頭は本来なら、小節の4拍子の骨格を持ち、5小節目に帰着するように歌われるものだ。これは提示部や再現部の開始でもそうなっている。だが、それらは先述したように冒頭とは違う作りになっている。これらの箇所では主題がアウフタクトと小節一つ分先行して4つ目の小節に帰着する時に伴奏が始まる。
一方で、この作品は冒頭をそのスタイルでは始めないのだ。
この問題に気がつくと、1小節めの拍節としての位置は「1拍目」でいいのだろうかという疑問が湧く。
ここに実は作品の挑戦の意図を見るのだ。
1小節を1拍目と捉えるという安定路線ではなく、普通のallegro音楽に見るような0小節めをそこに仮設しているのだ。
つまり、
0 1 2 3 | 4 5 6 7 |8…
という小節の4拍子で進む伴奏と、
1 2 3 4 | 5…
という
小節1つ分ズレた進行をするメロディとのゴールのないレースが展開される。
これらは16小節で折り合い付けることになるのだが、そこまでの帰着点が見出せない第1主題の空回りする奔走が切迫感や焦燥感を生む。
このような作りは先日のブラームスop73の冒頭が40小節目で初めて焦点を合わせるのと似ている。
1小節目を拍節の1拍目としてしまうと提示部反復で矛盾を起こすので、そこまで至って、答えはでてくるのだが、聞こえる音を1拍目にしてしまう癖は自覚して修正しなければならない。つまり、帰着点を見つけなければ起点は見えてこない。起点から帰着点までの過程にはそれなりの形がある。その形を見出せないまま鳴らしてしまうから音並べから脱却出来ないのだ。逆にこのような形が分かると音並べが陥ってしまう微分的なアプローチは無駄にしか思えなくなる。
この第1楽章に切迫した疾走感を感じるのはこのような作品の仕掛けによる。単にテンポが速いかどうかの問題では済まされないのだ。テンポが速くても仕掛けに乗れていない演奏はよくある。だが、そういう演奏は単に速いだけで、この仕掛けがもたらす不自然な立体感を再現することは出来ない。逆に20世紀の録音記録によく見られる遅いテンポでの演奏は、生理的にこのズレた拍節感に気がついていたからではないだろうか。もちろん、その4/4的なテンポ感では作品の形は死んでしまうが、それが当時としての妥協だったのではないだろうか?
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