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6拍子の把握と自律の楽しさ

K.550の6/8andanteのアウフタクトを捕まえることは小節を捉えているかどうかに関わる問題。その最初の動作次第でアウフタクトの表情、それに続くフレーズの温度が変わる。

小節の中の「6」をひとつの息に出来ないと6拍子は分からない。これは聞く側でも同じかもしれない。

音を並べて捉える感覚では「6」をひとつの息と捉えられない。6という粒を拾い集めたり、3つを捉えるのがやっとかもしれない。

この曲の場合、「四拍め」にある八分音符を「表拍」のように踏んでしまうのか、「シンコペーション」として聞かせられるかがポイントとなる。後者のように捉えられるとバイオリンによるワンノートのメロディに対して、vaの立場は伴奏から対旋律に格上げされるだろう。その呼吸の違いだけで出てくる音楽は俄然変わってくる。

つまり、小節の中を鳴らし並べる視野から、小節の6拍子という構造を俯瞰する視野に変わっているのだ。こうした捉え方が出来るとき、冒頭のアウフタクトの深さは俄然変わってくるのだ。

6拍子の小節を「ひとつ」で捉えられるようになるためには、そのフレーズの骨格を指揮できる状態でなくてはならない。
例えば、このK.550の場合なら、0小節めを起点とする小節の4拍子があることが出来なければ、音に振り回されて終わるだけだろう。

「音楽をする」時は、音ではなく、小節がどういう形をなしているのかで呼吸しているのがわかるのだ。

目の前にある「音符」を「そのもの」と捉えてしまうから構造が想像できない。目の前のちょっとした何かを「そのもの」以上に見ることができないから現実に左右される。
楽譜を読む、音楽を捉えるにあたって大事なのは、目の前にある「部分」から「全体像」を予測的に捉えようとすること、部分を支配する構造を探ろうとする意志なのだ。

6拍子を「3拍子」の並列と捉えてしまうのは、結局、その目の前にある音符やフレーズに囚われてしまっているからなのだ。「三拍子」的でいいのであれば3/8で充分だったはず。「6拍子」の設定である以上、そこには意味があるはずだ。それを自分が把握できないから三拍子にしてしまうのは努力不足なのだ。

音楽は音符が作るというよりも小節の組み合わせで出来ている。いわば小節は音楽の単位だ。
だが、「音符を数える」という初歩段階から離れられない「よいこ」になってしまうとそのミクロ路線から離れられない。それは自転車の補助輪を外せないのと同じだと思う。その姿勢は微分的な方向に進向む傾向がある。その微分視野は多くの場合、演奏を根性論や規律にしがちだ。さらには全体像を「物語」で語ろうとしがちだ。※全体主義はそういう微分論の傾向と似ていないだろうか?この傾向が「竹槍で爆撃機に対抗出来る」という精神論に結びつきはしないだろうか。

6拍子は、運動の単位たる小節の中の刻み方の問題である。単位音符を6つ並べる足し算ではない。小節を割り算で捉えられることだ。

僕の場合、その克服は「たかだのばば」という6音の単語だった。ここ数年、人には「津軽海峡•冬景色」の歌詞をおススメしている。

つまり、バラバラな音を数えるのではない。始めから例えば歌詞という形で、バラバラな音を総べる力があれば良いのだ。「6を数える」や直感的な「3が二つ折りからの卒業は容易いのではないだろうか?

こういう問題を考えていると、「律する」という動画の意味を噛み締めることになる。もっと言えば「自律」という意味に関わる問題なのだなと。

他人からの強制力や、本能的な把握ではなく、自分の頭がわかる知識に置き換え、自分で把握すること。例えば6拍子の把握は、そういう自らのコントロールの過程を見せてくれるものなのだと感じるのだ。

小節で把握出来ると見える世界は変わる。音に囚われていることと音楽を見ている姿とでは見える世界が違って来るのだ。

この視野が自分のものになると、このandante の開始にあるアウフタクトの位置がはっきりと見える。そしてその色、深さがよくわかる。だからこそこの曲を軽いandante で歌えるのだ。

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