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なぜ上から叩いてしまうのか? それは構造で読んでいないからだ

ブラームスop68のun poco sostenuto の楽譜を見て、バスパートの八分音符を上から叩くような発想にはならない。 小節の6つの8分音符をスラーで括る楽譜が言っているのは「小節をひとつの部分としてますよ」ということだ。「いち!、にい!、さん!、しい!、ごー!、ろく!」という発音がイメージされるはずがない。おそらくティンパニに過剰な演出を求めたあの爆演が原因なのだろうけど。とにかく、この楽譜からは、8分音符それぞれの上から鉄槌を下すような叩きは見えては来ない。むしろ、横方向への動きの方を見て取るのが普通なのではないだろうか。
よくある痛い演奏は、ペザンテという重みの対象の取り違えに過ぎない。

たしかにティンパニにはスラーの指示はない。だが、その叩き方は指示の細かいバスパートに準ずるのは、むしろバッハなどにも見られる「常識」なのだ。

とにかく、この冒頭のバスパートは9小節へ向かう長いひとつの流れである。8つの発音体が9小節に帰着する大きな持続音のような流れを作っている。

クラシック演奏によくある欠点の一つをここに見る。意志的な、上から落とすような発音の連続が、横方向の流れを破壊してしまうのだ。例えばエロイカ第1楽章のあのヘミオラの箇所も流れやリズム感は完全に殺されている。このブラームスop68冒頭も楽譜そっちのけな演奏が慣習になってしまっているのだ。

さて、このようにバスパートに横方向への流れを見出すと、この序奏のテンポ感が見えてくる。0小節めという余裕を持たせず、堰を切ったように怒涛のように流れが襲ってくる。小節の4拍子からそれは始まり、それが小節の3拍子に圧縮され、さいごには3連付の3拍子にまで圧縮されていく。

この流れに気がつくと、un poco sostenuto という指定が 「優柔不断で曖昧」なのではなくて。ごく適切なものに感じられるのだ。

横の方面へ流れを意識させるバスパートのこの楽譜を見ていると、上声部の楽譜にかかる長いスラーもその意味が見えてくる。

結果、もちろんテンポは速くなる。だが、たまにある「単なる速い」とそれとは決定的な違いがある。テンポが遅くないということよりも大事なことは、縦方向に上から叩き下ろすのではなく横方向に流れる横方向に流れる運動性である。6つの8分音符は1組の切り離すことのできない連続体である。それがひとつの単位なのだ。小節中の音符を細胞膜にくるみ細胞として活動している。そんな生命感が見えて来る。

ここに決然とした空気感を与えているのは8分音符の音圧ではない。それは0小節目という余裕を与えていない厳しい構造によるものなのだ。逆を言えば、構造が見えていないから、8分音符に頼ってしまうのだ。ティンパニの鋭い切り込みに緊迫感を負わせてしまっているのだ。それは所詮ハリボテに過ぎない。

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