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「そこにある」から背後の骨格を知る

K.550の冒頭やブラームスop73第1楽章の開始は拍節としてはどの位置にあるのか? 

実はこれは見出しにくい。
感覚的に見ているだけでは見誤まってしまうだろう。つまり、音が鳴り始めるところを拍節の開始位置だと思ってしまう。だが、そういう執り方では作品に仕掛けられた仕組みを捉えることはできない。そして、提示部の反復で矛盾を起こすことだろう。

例えば、K.550の反復箇所にあたる100小節めの四分音符は拍節的には「1拍目」にあたる。反復した場合、1小節めは「2拍目」になる。だが、鳴った音を1拍めと聞いてしまう耳では、この反復の際に1拍目が連続してしまうという不自然か起こる。

①0 1 2 3|②4 5 6 7 |③8 9 10 11 |④12 13 14 15 |①16…

という大きな4拍子の骨組みが顕になる。そして、この骨組みがわかると、この冒頭は16小節目まで伴奏の低音とメロディのバイオリン陣との波長は合わないという事実を知る。

ブラームスop73でも1小節に起点を置いてしまうと反復の際に辻褄が合わなくなる。反復に不自然が生じるのは往々にして、このような拍節の間違えに起因する。一番括弧の最後の四つを見てみると、先の二つの小節でクレシェンド、最後の二つの小節でデクレシェンドが書いてある。この< >の箇所はその頂点で拍節を切り替える。つまり、最後の二つの小節は反復先の2小節めのためのきっかけに当たる。つまり、ホルンのメロディが始まる3小節目の前には「小節二つ分の余地」がもとめられてい流のだ。

そう考えると、この冒頭は

①0 1 ②2 3 ③4 5 ④6 7
|①8 9 ②10 11 ③12 13 ④14 15 ⑤16 17 ⑥18 19 |
①20 21 ②22 23 ③24 25 ④26 27 ⑤28 29 ⑥30 31 |
①32 33 ②34 35 ③36 37 ④38 39 | 40…

となることが分かる。この場合も先行する低音部の進行とホルンのメロディは40小節で初めて波長がある。そして、ここから音楽は4つの小節を分母とする音楽となる。それまでは拍をずれて進行する伴奏とメロディが続くのだ。焦点のズレた音楽が40小節目まで合わない進行が続くのだ。だから44小節からの「偽の第1主題」の存在感が大きいのだ。焦点のあった4つの小節を分母とした三拍子として、最初のクライマックスに向かっていく。
この4つの小節を分母とする安定したメロディは、これまでの不安定さとは異なる、はっきりとした位置にある。
この冒頭の位相のずれは、再現部では行われない。拍節的に解消されている。K.550の場合も、その位相のズレは16小節目までの間だけであるのと同じだ。
ブラームスの場合、その再現部では「偽の第1主題」が「真の第1主題」の背後に控え、小節の四拍子の枠組みを明確にして歌う。再現部の新鮮さの秘密はここにある。

これらの作品における、位相のズレたと音楽の面白みは、聞こえる音を「始め」と認識してしまう捉え方では見えてこないことなのだ。四分音符を「ひとつ」とする三角三拍子の把握では、このような立体感は得られない。

物事の成り立ちに相対的な存在感を見ることができない人たちには音楽は単なる音響の羅列でしかない。

音響を超えて音楽を捉えることは、音響羅列に周期性を見出し、合理的に割り算的に全体を整理できることである。その差は、自転車やスケートが出来るのかどうかと同じ類でもある。

これは演奏だけでなく批評の立場でも同じだ。音響羅列のレベルでしか作品が見えていないのに、作品やその演奏を語ることはできないのだ。

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