見出し画像

勝手に「意味を持たせる」前に

D759を演奏するその瞬間、どこを見ているだろう。あるいはブラームスop98のときはどうだろう。
音を鳴らす、響かせるに目的がある人と、音楽をしようとする人とでは見ている場所が違うのだ。D759の序奏のフレーズが帰着する6小節めから8小節目が見えいていて、そこまでがひとつの言葉として見えいていない演奏では音が鳴っているに過ぎない演奏になる。どんなに心を込めていようとそれは音楽に出はなく音に対してだ。

そのゴールが見えていてなければ、小節の3拍子が分母となって大きな3拍子が見えている。その序奏の全体が見えているから、楽譜からそのテンポ感が見える。そこまでひとつの言葉として語ることができる。

ブラームスop98の開始も2つの小節が分母となった4拍子と5拍子のリレーがあって、その最初のフレーズを形作っている。17小節めと18小節めに落ち着くところを求めて推進していく姿が見える。その流れるようなテンポ感も楽譜から伝わってくる。

帰着点が見えていないければ、運動の方向性が見えない。そこに向かって動かすという運動の目的がない。目的もないのに動かすことほど無意味なことはない。

どこに向かうかわからない。それは意味もなく1を足し続ける機械のような行動になる。結果として形はできるかもしれない。だが、それは形を語ったことになるのだろうか。バラバラな音声をつなぎ合わせたら意味がある言葉になる。という発想では「語った」ことになるのだろうか。
足し算は分析的ではない。不毛な演算の連続でしかない。日本の教育でいう計算力はそういう無目的な行動を機械のようにこなさせる能力でしかない。

分析な知性を育てるには「6タス4はいくらになるのか」という結果の精度を求めるのではなく、「10にするためには6に何を足したら良いのか」を考えさせることが必要なのだ。

詩の朗読も、音楽の演奏も、いやそもそも語るということも「伝える」ことが目的だ。「何を伝えるのか」という目的が先にあって、その実現のために歌い、語るのだ。

だが、音符を鳴らす、響かせるが目的になってしまうと伝えようとする「意味」はない。意味がないことに意味を持たせようとするから「精神論」や「技術」の問題に終始する。それはますます本来の「意味」や「目的」から離れてしまう。

そのことに気が付くと、楽譜の捉え方は変わる。音符ではなく、そこにある音楽の形を捉えようとするところに譜読みの目標がある。その形が見えていいるから演奏は、目的に沿って進んでいく。

テンポが遅い演奏というのがある種の味わいを持つことがあるのは否定はしない。だが、そこには本来の作品の目的が見えないことに開き直って、その響きを鳴らすことで、作品の目的とは違う方向での意味を音に持たせているに過ぎないものもある。その作品の目的とは違うところに勝手に持たせた意味になんらかの正当性を持たせようとするために、伝記的情報やら楽譜の外の情報が必要なのだろう。だがそれは実にばからしい行為だ。そもそも本来の作品の目的を追及せずに、最初から自分のエゴを押し付ける行為の過ぎないからだ。外部情報を集めて妄想する前に、目の前にある楽譜から何が得られるのかを求めることこそ大事なのだ。




いいなと思ったら応援しよう!