![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/128065724/rectangle_large_type_2_999320bd752c7b00dbf89d9a34eba289.jpg?width=1200)
その音楽はどこから始まっているのか? 〜「ゼロ」の存在を吟味する。
D759の3/4allegro moderato の冒頭の楽譜を見てみる。その「序奏」主題はいくつかのスラーで括られているが、それは小節でグルーピングすると
12 34 5 678…
という区切り方になる。
ここで6〜8小節めの3つの小節が括られているところにこの拍節を読み解くヒントがある。
そもそもこの「序奏」フレーズの帰着点はどこにあるのか。6小節目にあるのか、9小節目にあるのか。
つまり
12 34 5 |678 9…
なのか
12 34 5 678 | 9…
ということ。
ただ、どちらにしても、この8小節間フレーズ自体は3つの小節を分母にしているのではいだろうか、と考えられる。
その仮説に従うと半端な位置にあった5小節めの立場は明確になる。つまり、
345 | 678
というこのフレーズの断片が見えてくる。では残りの1小節目、2小節目はどうなるのか。そうするとこの前に仮設的な小節の存在が必要になる。
012 345 | 678
こうやってバランスがとれた状態になる。
だが、
012 345 |678 9
なのか
012 345 678 | 9
なのかの問題がある。
前者の立場に立つと
012 345 |①678
となるのだが、その先、第1主題は
②91011 ③121314 |①15…
となって、あまり骨組みとしてしつくり来ない。
後者の場合、
678|①91011 ②121314 ③15161718|①19…
となり、矛盾ない骨組みが形成されていく。
つまり、この音楽は3つの小節を分母とする大きな三拍子で動いているのだ。
①012 ②345 ③678 | ①91011 …
序奏フレーズはそのまま9小節目を導き出す形で動いていることになる。
この流れがわかっていないと無意識のうちに序奏フレーズを6小節に帰着させてしまう。有名なフルトヴェングラーのリハーサル動画でも、この問題について、フルトヴェングラーはベルリンフィルにそう弾かないようにリクエストしている。
さて、このような構造把握をしていると「0小節目」という存在を目の当たりにすることになる。実体はないのだけれど、その存在を認めないとバランスが取れない。別な言い方をすれば全体構造が、実体が存在しないはずの0小節めをはっきりと照らし出しているのだ。
この話しでふと思い出すのが「ビットコイン」の仕組みだ。ビットコインには実体はない。けれども取引の記録上でコインの動きが照らし出される。
あるいは仏教で亡くなった故人を「○回忌」と偲ぶのも、故人を思い出し光を当てることで「存在」が浮かび上げることができるのも同じだ。
このような実体がないものを仮設的に実体化する考え方は人間の想像力の賜物なのだと思わされる。
そもそも数学においても「ZERO」の存在を認めない成り立たない。
見えないものではあるが、こうやって構造のあり方自体に光を当てていくと目には見えないが確実になくてはならない「存在」に行き着く。デカルトが演繹法を提唱していたように、一見目に見えないもの、実体がないように思われるものも、そこにあると定義しなければ成り立たないものもあり得るのだ。
音楽におけるこのような0小節めの存在の可能性もあるのだ。
自分が取り組む音楽はその存在を前提としているのかどうかは吟味する必要があるのだ。