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「解釈」という名の抗弁

ブラームスop73の第1楽章118小節目からのquasi retenenteはどこまで続くのか。
それについて楽譜に明確な指示はない。おそらくは126小節目で決着するのだろう。

これをどこで決着をつけるのかが、実は「解釈」の本来の意味なのだ。

だが、クラシック音楽演奏の界隈では「解釈」という言葉が安っぽく使われすぎていて辟易とする。この作品についても、ブラームスの性格とかなんやらから「解釈」されすぎていて、もはや楽譜に書かれている本来の姿から乖離しすぎている。3/4allegro non troppoが4分音符による三角3拍子で、しかもadagioのように演奏される演奏が名演と評されるのも呆れる。

作品の成立背景とか、作者の日記的な心情把握とかがなくては作品が理解できない、なんていう言われ方がある。だが、そういう考え方は宗教革命前の聖書みたいな扱いだ。一部の聖職者しかその奥義を知らず、そういう一部の思想が信者を支配するのは決してフェアではない。ドイツ語によってだれでも聖書に直接触れられるようにし、直接個人が考察できるようになったことは大事な変化だった。

江戸時代における儒学理解にも、定番的な教科書の教えみたいなものが支配的だった。だが、そうした風潮に対して「古文辞学」という一派を生み出すことになる。(AIによる説明:「古文辞学は、中国の古典や聖人の文章に直接触れ、正確に読み解くことで古代の聖人の教えや儒教の本義を明らかにしようとする学問です。」)

「解釈」というのは、誰にとってもフェアな状態で行われなければならない。楽譜という情報から直接的に考察できることこそ大事なのだ。いわゆる記憶や外部情報からなる「常識」とかさらにはマニアックな「蘊蓄」が闊歩するようではだめなのだ。古文辞学的な立場から為されるようでなくてはならないのだ。

さて、ブラームスop73に話を戻そう。

定義的には118小節目から始まり、おそらく、126小節目でそれは解放される。そのように考えられるのだが、実際、そのquasi retenenteが126小節目から突然始まるように演奏するのはやや不自然な気もする。
まあ、そもそもよく聴かれる演奏ではもともとが三角3拍子なのでここでテンポを落とすまでもないのだが、普通に楽譜を読んでいけば、ここで、「なんとなく停滞感を出す」という雰囲気は、ben marcatoと相まって、すこし語調を強める感じがあって面白い。だが、118小節で突然というのもややスムーズさに欠けるように思う。

そもそも、この118小節めからのフレーズはリズム的に難しい。単なる数合わせに堕ちる可能性も強い。この部分について消化できていないと演奏も批評も難しい。(批評をする立場もそれぐらいの力量がなくてはならない。勘違い把握のまま他人の演奏を批評するなんて恥晒しなのだ)

さて、この付点リズムを伴うヘミオラの応用のようなフレーズだが、この付点リズムからフレーズが始まっているのではない。アウフタクト的に前の音符を起点として始まっている。122小節目のアウフタクトがそのヒントになっている。だから、124小節目のアウフタクトが、バリエーションが効いていて面白い。
そう考えると、119小節目3拍目から始まる付点リズムも、その前の2拍めの4分音符を起点していることに気づく。そして、その4分音符は16分音符の装飾音を伴っていることも見えてくるだろう。

さて、そうすると118小節目からの最初の付点リズムを起こしているきっかけはどこにあるのか。それは直接的には117小節目の2分音符ではあるが、実際には116小節目からの2つの小節で作られるヘミオラとも言える。

つまり、このリズム的な難所は、116小節から125小節目に至る10小節間であって、見方を変えれば、2つの小節を分母とする5拍子の骨格の中にある。そもそも第1主題では2つの小節が分母となる音楽だった。第2主題は小節の4拍子であったが、ここで元のフレーズ感に戻っていることになる。

「5拍子」は荘重さを象徴する拍子で、たとえばベートーヴェンop125の第1楽章は小節を分母とする5拍子だった。このブラームスop73のこの部分において、quasi retenenteを伴うben marcatoが5拍子拍節でできていることは、やはり、そういった荘重な雰囲気を出す背景となっている。

そう「解釈」すれば、quasi retenenteが116小節目から準備段階に入り、118小節目からben marcatoで強調的な発音となり、126小節目で解放されると読むことができる。

127小節目のアウフタクトからは、本来のallegro non troppoを取り戻すことになる。ben marcatoの強調的な深く重いステップと127小節からの快活な流れとの対比が鮮やかであり、印象的である。(この先もリズムは難しいのだが…泣)

「解釈」とはこのように楽譜の側から、それをどう分析するのかの立場の姿勢でなくてはならない。作品に外部情報を組み入れる抗弁のようになるのはよくないのだ。


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