見出し画像

まだ学校でう⚪︎こをしても笑われるのか?

もはや大昔の話であるが、私は小学校や中学校でのスクールカースト内では決して上位層ではなかった。少なからずイジメられていたような気もする。理由はいくつかあったと思うが、これは確実だなという要素があって、それは私がよくう⚪︎こを学校でしていたからではないかと今でも思っている。

私には過敏性大腸炎という持病があった。大層な病名だが、要は「緊張すると下痢をする」人間だったのである。そして、この過敏性大腸炎と小学校や中学校という社会の相性がまあすこぶる悪い。

この社会では、高校、大学、そして社会人になるにつれて、う⚪︎こを公共のトイレですることに寛容になっていく。というより、なぜか小中学校という村社会の中で「う⚪︎こを学校のトイレでする」ことによる、社会的地位の下落っぷりがすさまじい。休み時間にう⚪︎こをしていることが見つかるや否や、とんでもないことをしでかしたかのごとく吊し上げられる。

ストレスがう⚪︎こへのトリガーとなってしまうのが過敏性大腸炎であるが、う⚪︎こをする、あるいはしたくなることそのものが多大なるストレスになり得るのが、小中学校である。
なので私は、小中学生時代は、ほぼ一日中う⚪︎こをしたくなってしまうのでないかというストレスに苛まれては、そのストレスによって本当にお腹が痛くなり、トイレに駆け込む日々に神経をすり減らしていた。もう時効だから書くが、小学校時代には何度か授業中にやっちまったこともある。
中学生になってからは、授業中にトイレに行くことで目立ってしまうのであれば、もう意識を飛ばしてしまおうと思って、ただひたすら授業中は寝ることにしたし、それでも腹痛への懸念が大きい時はそもそも授業をサボったりもしていた。当然、学生としての評価は論ずるに値しないとなるわけだが、クラスメイトからう⚪︎こをちょいちょいする戦犯として認識されるより何十倍もマシである。そのおかげで、中学校はスクールカーストの最下層に落ちることはなんとか免れていた(おそらく)。

社会人になってからの世界にはもちろん、お腹が緩んでしまうようなストレスは日々たくさんあるが、私の記憶からするに、小学生や中学生だった頃の方が慢性的に抱えているストレスは大きかったように思う。なので、「あ〜仕事嫌だなあ、学生時代に戻りたい」なんて言う人とたまに出会うが、私は絶対に戻りたくない。間違いなく今の方がストレスは少ない。なぜなら、う⚪︎こをしても誰にも指をさされないから。

noteでなんとなく何か書こうと思った際にふと、「#多様性を考える」というハッシュタグを見つけて、う⚪︎ことの苦悩の日々を思い出した。
数十年前と比べて、今の小中学校という社会の中で、う⚪︎こをしがちな子に対して寛容的になっているのだろうか。私は結婚しているが子供はいないため、子供たちの現場レベルの実情を窺い知ることはできないが、どうかう⚪︎こをしがちな子に石を投げないで欲しい。だって、何も悪いことをしていないから。う⚪︎こに罪はないのだから。

でも、それが多様性を考えるにあたって難しいことだとも思う。罪はない、だから認める、というような「ロジック」の話ではしばしばおさまらないからである。
人間だから、誰にだって、どうしても理屈抜きで嫌いな人の一人や二人はいるはずだし、「理由なんてない。学校でう⚪︎こするやつはとにかく嫌だ」と言われてしまうともうどうしようもない。

胸を張ってう⚪︎こをできる社会に、果たしていつか成熟できるのだろうか。その一つの道筋として、「愛」があるのかもしれないと、いまふと思った。「理由なんてない。学校でう⚪︎こするやつが僕は/わたしは好きだ」という子たちが出てくれば、風向きは変わるのかもしれない。少なくとも私が学生だった頃はそんな人間は誰一人としていなかったが。

う⚪︎こをする学生ってかっこいい、素敵、って、どうすればなるんだろうか。

#多様性を考える

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?